気ままに歩いて候。

あせらず、くさらず、歩いていきましょう。 2007年5月の連休から始めた区切り打ちの四国歩き遍路の思い出を綴った記事を中心に掲載しています。

歩き遍路 - 2010年5月

春の伊予路をゆく (霊峰・石鎚山へ) 4

モエ坂の山道1














『モエ坂の山道』


【2010年5月3日】

 星ガ森を出発したのが午後12時20分くらいだった。モエ坂を下り終えるのに1時間ぐらいはかかるだろうと大方の目星をつけてはいたが、ここは敢えて時間のことは気にせず、足元に神経を集中しながら慎重に(それでいて敏捷に)坂道を歩くようにした。やはり予想したとおりの急勾配な坂道だったが、枯葉や枯枝がこんもりと道中に積もっていてクッションの役割をしてくれるためか、とても歩きやすい。下り坂特有の脚(特に踵や膝など)にかかる衝撃が幾分和らいでくれるばかりでなく、微妙な弾力もあって、思ったよりもスイスイと脚が動く。これなら筋肉痛を起こす心配もないかもしれない。「脚に優しい道」といったらいいのだろうか。軽やかに脚が動くと気分も高揚してくる。高揚した挙句、「これなら少しくらいはペースを上げてもいいんじゃないか?」とつい思ってしまうものだが、それはとんだ間違いである。地面はたしかに柔らかいが、なんせ急勾配の下り道だ。甘くみてはいけない。ペースを上げることで、膝の負担は大きくなってしまう。重力に逆らって坂の地面を踏ん張る膝の筋肉の疲労度は、スピードを上げることで大幅に増すことだろう。確実に筋肉痛を起こしてしまうに違いない。そればかりではなく、道には枯葉や枯枝に混じって石コロがあちらこちらに散らばっていて、急ぎ油断して踏みつけたりすると転倒する危険もある。やはり注意が必要だ。適度な緊張感をもちながら慎重に進むことが最善といえるだろう。慌てず、ゆっくりと、ストックを使って体のバランスに気を配りながら坂道を下っていく。

 モエ坂に入ってから10分程経っただろうか。突然行く手に御堂らしき建物が見えてきた。近寄って見てみると、どうやら薬師堂のようである。「こんな人の気配もない山道に、どうしてまたこんなものが・・・。」と思ってしばらく眺めていると、どこからか人の話し声が聞こえてきた。話し声の主たちはこちらに近づいてくるようだ。やがて、2人の熟年男性が薬師堂の陰からひょっこりと現れた。山道とは全くかけ離れた方向から急に出てこられたものだから少し驚いたが、どうやら地元の方のようで、この辺りの地理にも詳しいのだろう。山道以外の小道もよく知っておられるにちがいない。2人とも軽量のザックを背負い、手にはビニール袋を下げておられる。「さー、この辺で飯(めし)にしようか!」と声を掛け合いながらビニール袋の中から弁当を取り出し、薬師堂の縁側に座られた。傍に立っていた僕にもすぐに気付かれて声をかけてくださった。そこで暫しの間このお二人と一緒に時間を過ごしたわけだが・・・、今にして思えば、このお二人との出会いはとても奇妙だったというか不思議な出会いだったように感じる。それは、お二人がどういう方達であったのかということに由来する。薬師堂が建立された云われについて、そして薬師堂を取り囲むこの一帯が実はどういう場所であったのか・・・。それらの事柄に関して、とても所縁(ゆかり)の深い方達であったのだ。そんなお二人とたまたま偶然出くわしたこと自体が不思議な出来事であったように思えてならない。これだけの説明ではこの記事を読んでもらっている人にはなにがなんだか訳がわからないだろう。この出会いのあらましをここに記してしまってもよいのだが、多分話が長くなってしまって、それだけで今回の記事が終わってしまいそうな気もするので、詳しい顛末はまた別の機会にじっくりと記事にまとめようと思う。簡単な形にまとめて、ここに記してしまうのもなんだかとても惜しいように思われるのだ。それほど、個人的には想い入れがあるというか、大変興味深い出来事であったから・・・。ひとしきり、お二人と時間を過ごした後、お別れを告げて薬師堂を出発したのが午後12時40分過ぎ。僅かな時間ではあったが、薬師堂での出会いはとても印象深く今でも強く記憶に残っている。



モエ坂 観音堂
『 モエ坂の薬師堂。弘法大師・薬師如来・不動明王が奉られているが、昔は大日如来が御本尊だったという。現在は横峰寺に安置されているという大日如来像だが、この像にはある伝説が残っており御堂の創建に深く関わっている。その話はまた別の機会に・・・。 』



 モエ坂の山道を更に下っていく。本当にどこまでも急な坂が続き、最初のうちは「脚に優しい道だ」「筋肉痛は起こるまいよ」と思ってはいたものの、時間が経つにつれて、それが全く的外れの考えであったことがわかってきた。たしかに道はわるくはない。昨年(2009年)の夏に訪れた久万高原町の八丁坂(45番札所岩屋寺に至る山道)の終盤あたりの下り坂、そして久万高原町と松山市の境界に位置する三坂峠の下り坂を歩いたときの思い出は、まだ新しい記憶として残っているが、いずれの坂道も歩き辛く、挙句は膝の筋肉を傷めてしまった。それらに比べれば、このモエ坂はまだ「優しい道」だといえるかもしれない。ただ、この時の僕は何時しかモエ坂を下り終えた後のことに気を捕らわれ始めていた。「何時頃石鎚山の登山口に着けるだろうか?」「あまり遅くなってもまずいな・・・」といった小さな不安材料が徐々に歩くペースを速めてしまっていた。慌てず慎重に歩くことに充分注意していた筈であったが、結局は先を案じる気持ちに負けて本来の自分のペースを見失っていたようだ。結果、脚の筋肉にかける負担は大きくなりだんだんと辛くなってきた。「マズイな、今脚を痛めている場合じゃないんだけども・・・」と頭では考えているものの、無意識のうちに脚が勢い良く前へ前へと動く有様だった。辛いんだけれども止められない・・・、そんなジレンマを抱えながらの歩行が続いた。しかし、歩けども歩けども周囲の状況は変わることもなく、何時終わるともしれない急勾配の坂は相も変わらず延々と続いてゆく・・・。「このモエ坂もやはり難所だった!」、そう思わざるを得なくなってきた。地形的な意味合いもあるが、石鎚山登山口へと逸る気持ちがつい生まれてしまう場所なのだという意味も込めての『難所』というわけである。さすがに『修行の道』、厳しいものだと思いながらも、せめて足元の注意だけは怠ってはならぬと意識しながらセッセと坂を下っていく。



モエ坂の山道2






『 途中、杉などの山の木々が進路上に倒れている場所が多々あった。全て歩き易い道であったかといえば、あながちそうとも言い切れない。しかし、四国の遍路道ではこういった場所は珍しくはないので、特には気にならなかった。むしろ、これぞ遍路道!と嬉しくなったりしたものだった。 』

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春の伊予路をゆく (霊峰・石鎚山へ) 3

番外霊場 星ガ森

『 番外霊場 星ガ森 』


【2010年5月3日】

 横峰寺本堂の傍の石段を下り、納経所の前を通り過ぎると、山門が見えてくる。番外霊場星ガ森へは、この山門を出て500m程の坂を上っていかねばならない。山道が苦手なお遍路さんにとっては、星ガ森という場所は「行ってみたいけど、まだ坂を上らなければならないんだったら、ちょっとねえ・・・」という、いわば『手が届きそうで届かない場所』のようである。横峰寺は標高およそ800mという高地に位置する札所だが、そこから更に上を目指すということになると、気が萎えてしまうのだろう。「もうこれ以上坂を上るのは御勘弁」といった具合に・・・。
 僕も正直なところ、「ちょっと、これ以上は・・・」という気持ちが全く無かったわけでもない。両脚にはまだほんのりと疲労が残っていた。しかし、どうしても星ガ森は見ておきたいという思いが勝ったせいか、500mの坂道を進むことに対しては強い抵抗は感じなかった。 ・・・いやいや、そもそもそんなことを感じている場合ではない筈である。自分はこれから四国最高峰の石鎚山を登らなければならないのだ。僅かな疲労感でどうのこうのと言っているようでは先が思いやられる!

 山門の傍には真新しい立派な休憩所が建っていた。休憩所の入口には飲み物の自販機が一台置かれている。「そうそう、水を買っておかないとな」と、ひとまず休憩所の中へ入る。木製の机とベンチが何台か設置されていて、なんだか居心地もよさそうな場所だった。ベンチに荷物を置き、自販機でペットボトルの水を2本購入したあと、どうにも去りがたい気持ちが湧いてきて、何気にまた暫くの休憩タイム・・・。さてさて一体、横峰寺を出発するのは何時になることやら・・・。
 机の上にへんろみち保存会の地図を広げ、星ガ森より更に先の道筋を確認していると、そこにやや重そうな荷物を背負った若いお遍路さんが入ってきた。まだ20代ぐらいだろうか。しかし、顔には顎鬚が伸びており少しやつれておられる。そのせいか実年齢よりも上の印象も受けるのだが、目元や体つきなどを見ると「あ、まだ若いわ。」と判断できる。「こんにちは」と声をかけたが、淡い笑顔で答えられただけであった。この青年お遍路さん、荷物を見るとどうやら野宿遍路のようである。白衣も少し汚れている。寡黙なタイプのように見えるのだが、実は相当疲れていらっしゃったのだろう。ベンチに座り込みグッタリされている様子を見ていると、あまり話しかけるのも悪いような気がした。本当は色々とお話を伺いたいんだけども ・・・。一昨年の暮れに行った年越し遍路で野宿遍路さんと旅を御一緒したことがあったが、それ以来、『野宿遍路』というもの(旅のかたち・お遍路さんの人間性)に妙に惹かれている。自分達のような宿泊まり遍路とは、また違った視点で旅をつづけておられるように思われるのだが、その「視点」に興味が湧くのだ。
 悪いとは思いながらも、我慢できず話しかけてみた。「野宿されてるんですか・・・?」「・・・ええ、まあ。」といった具合で会話が進みだした。口数こそ少ないが、しみじみと旅の経過を語ってくださる。「・・・『通し』ではないんですけどね。歩けるだけ歩いて、気持ちにキリがついたところで打ち切るかんじで。これで3度目の旅になります・・・。」意外なことに区切り打ちのお遍路さんだった。彼のもつ雰囲気から、勝手に通し打ちお遍路さんだろうと思い込んでしまっていたのだが・・・。それにしても「気持ちにキリがついたところで区切る」というのも羨ましい旅のかたちではある・・・。その後も彼とは暫し会話を楽しんだが、彼も疲れているようだったし、僕もあまりのんびりとはしていられない状況だった。名残は惜しかったが、キリのよいところで彼に別れを告げる。
「石鎚山ですか・・・。頑張ってくださいね・・・。」
 最後に彼が言葉をかけてくれた。こうして、休憩所を出て、ようやく横峰寺の山門を出発した。時間は既に午前11時40分を過ぎていた。横峰寺にはなんと2時間近くも滞在していたことになる。のんびりするにも程がある!!と言われそうだが、よい出会いもあったことだし、そしてなんといっても御寺の空気が良すぎた・・・!まあ、たまにはこんな幸せな時間をゆっくり過ごすことがあってもよいではないか(笑)。ちなみに野宿遍路の若者とは、後日、旅の最後で再び顔を合わすこととなる・・・。


横峰寺 納経所付近の様子





『 納経所と付近の様子 』


 山門を出てすぐの場所に石標が建っており、「番外霊場星ガ森580米 三教指帰(伊志都知能太気)石峯御修行之道」と文字が刻まれている。伊志都知能太気(いしづちのたけ)とは、弘法大師空海が24歳の頃に書かれた『聾瞽指帰(ろこしいき)』という書物の中に出てくる現在の石鎚山の古い呼び名である。若き日の御大師様は、横峰寺を拠点にして石鎚山を修行の場とされ、度々入山されたそうである。ちなみに横峰寺が開かれたのは西暦651年、御大師様誕生よりも123年も前になる。(以上『四国遍路ひとり歩き同行二人解説編 へんろみち保存協力会編』参照)
 四国霊場最大の難路「修行の道」がここから始まるのだと石標は教えている。少し身の引き締まる気持ちにもなったが、お堅く構えてみても気が疲れるばかりだ。のんびりと坂道を登っていくことにする。なだらかな坂道に2本のストックを左右交互に突きながら進む。脚の疲労はもうかなり癒えていた。木々の匂いを感じながら、気持ちも新たに歩を進めていく。


横峰寺山門付近の道標 横峰寺山門より坂道を進む







『 山門を出るとすぐに目に入る道標。「修行の道」はここから始まる。山門から星ガ森へつづく坂道は大してキツい道ではないので、ここまで来たからにはやはり歩いてみるほうがよいと思います。 』

 
 僕が星ガ森を憧れの地と感じた訳は、ある写真がきっかけだった。写真を見るまでの僕は、星ガ森がどういう場所なのかという簡単なあらましを知っていただけに過ぎなかった。興味はあったが、憧れを抱くほどの感情はまだ持っていなかっただろう。そのきっかけとなった写真はたまたまネットで拾ったものだった。本当にごく普通に霊場の様子を映し出していたものにすぎなかったのだが、妙にその写真に魅力を感じてしまったのだ。江戸期に建てられたあの有名な鉄の鳥居の佇まい、そしてその向こうに聳え立つ石鎚山の悠然とした姿・・・。星ガ森のごくありふれた観光写真であったろうし画像も粗いものだった。しかし ・・・。「エエな!!」「この場所に、はよいきたいな!!」と、異様な感動を覚えてしまった。今になってみても、何故この写真に感動したのかが、わからない。ひょっとすると、目に見えない何かしらの力が写真を通じて導きを与えてくださっていたのかもしれないが。まあなんにせよ、ひょんなことから湧き上がったこの『憧れ』の気持ちが、この先の旅を進めていく上での非常に良い材料となったことは確かである。高いモチベーションで「修行の道」に脚を踏み入れていくことができたからだ。

  件の星ガ森に着いたのが、午前11時50分くらい。横峰寺の山門を出発してから大した時間はかからなかった。道の左手に「霊跡星ガ森 横峯寺奥の院」と書かれた絵看板が見えてくる。そこで、ひょいと左に視線を移すと、何度も写真で見たあの光景が・・・。「本物だ、あの景色が目の前に広がっている!!」と心の中で唸ってしまった。まさにあの写真と同じ景色である。天候も晴天だったので、鉄の鳥居の向こうには石鎚山が悠然とした姿を見せていた。なんというのか、有難い気持ちが湧いてきた。自分はこの場所が最も映える時に来ることができたのではないだろうか・・・。とても運がよかったのだと感じると同時に、これが「御導き」だとしたら本当に、本当に有難いことだと感謝の念が湧いてきた。


星ガ森 絵看板星ガ森で記念撮影







  『 星ガ森の絵看板 』                『 鳥居の傍で記念撮影 』


 鉄の鳥居はイメージしていたよりは、サイズが小さかった。この鳥居は寛保2年(1742年)に建てられ、昔から「石鎚山発心の門」として崇められてきたそうである。「門」と呼ばれるからには、もうすこし大きな、少なくとも自分の背丈以上のサイズを勝手に想像していたのだが、随分と小柄な佇まいに少し意表を突かれた感もあった。しかし、歴史を刻んだ風格というか貫禄のようなものは充分に感じとることができたと思う。

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春の伊予路をゆく (霊峰・石鎚山へ) 2

横峰寺境内の様子1














                     『 第六十番札所 石鉄山横峰寺 境内の眺め 』


【2010年5月3日】

 起床は午前5時20分。相部屋の2人を起こさないよう注意しながら、床をかたずけ、出発の準備をすすめる。洗面所で用を済ませ部屋に戻ってくると、年配のお遍路さんが起きてらして「出発するのか?」と声をかけてくださった。もう一人の若いお遍路さんはまだ熟睡中、起こしてはいけないので小声で2人で暫し談笑する。「ひょっとしたら、これでお別れになるかもしれないので・・・」と一応別れの挨拶を交わしたあと、荷物を背負い部屋を出た。別れの挨拶は実にあっさりとしたものとなったが、それはお互いがまだ縁がつづくのではないかということを薄々感じていたからかもしれない・・・。

 午前5時50分、ビジネス旅館小松を出発。一旦、国道に出て近くのコンビニに寄る。朝食を摂らねばならなかったし、昼食用の食料も調達しなければならなかったからだ。
 店の外に腰を下ろし、朝食のパンをむさぼりながら、遥か南に聳える山並みを眺める。「今日は一日、どっぷり山の世界と付き合うことになるな」などと考えながら・・・。
 午前6時40分にコンビニを出発する(結局、早出とはいえない時間帯となった)。出発する際に昨日まで温存しておいた2本のストックをザックから取り出した。この日の行程は殆どが山歩きとなるため、出だしからノルディック歩行でいこうと決めていたのだ。金剛杖を紐でザックにくくりつけ、2本のストックを使っていよいよ歩きはじめる。2ヶ月間練習を積んだノルディック歩行、全てはこの日のためだったのだ。ついに成果を見せるときがやってきた、嗚呼・・・。嬉しいやら恥ずかしいやら、複雑な心境で遥か山並みの方角を目指して歩を進めていく。


小松より横峰寺へと歩き始める




『 国道11号線から南に聳える山並みに向かって歩く・・・ 』



 広々とした農作地や点在する民家の景色を眺めながら歩くこと、およそ20分。松山自動車道の高架下を通過してから先は少しずつ景色の様子が違ってきた。あまり人気(ひとけ)を感じない、そして自然の密度が濃くなっていくような景色が拡がってくる・・・。「そろそろ山道に入っていくのか」と思うにつけ、ちょっとわくわくした気分になる。今回の旅の正念場がここから始まるのだ。

 途中、大きな砕石場の傍を通り抜ける。更に先へ進むこと二十数分後、左手に「60番札所横峰寺近道」と書かれた白い小さな立札が見えてきた。立札が示す左手の細い道に入るが、そこから先は本格的な登山道だった。左右に樹木がうっそうと生い茂る山道。いよいよだなと思った。横峰寺へのきつい道中のはじまりである。

 僕の選んだルートは地図上では確かに近道ではあった。しかし距離が短い分、勾配が激しくなるのだ。急な登り坂が度々現れ、その都度、呼吸を荒げながらせっせと脚を踏み出して行く。2本のストックを使いながらの坂道歩行は膝の負担を軽減してくれるし、身体のバランスがうまく保てるという利点もあって、これまでの金剛杖のみに頼った歩行に比べると正直楽である(とはいえ、やっぱりしんどいですが・・・)。背中のザックにぶら下がっておられる『お大師さん』には今日だけはゆっくりお休みしていただく。いつも一緒に歩いて下さる『お大師さん』を背中にしょっているような感じがなんとも新鮮だった。


横峰寺への山道








『 急な坂道の多い山道。僕は歩くのに少し苦労したが、山歩きの達者な方なら左程きつい道ではないのかもしれない。 』


 道端に時折、蓮の形をした小さな石碑を見かけるようになる。お地蔵様の御姿が刻まれており、その真横に漢数字と「丁」の文字が・・・。「ああ、丁石か」と合点がいった。丁石が設置されているということは、この道も白滝奥の院を経由する山道と同様に昔から遍路道として利用されていたのだろうか。しかし、この丁石なるもの・・・。距離や現在位置を知る上では非常に重宝するものの、こういったきつい坂のつづく山道を進む場合にはモチベーションを下げる要因にもなりかねないように思える。距離を意識しながら坂道を登るというのは精神的にはかなり辛くなる(個人的な意見だが)。むしろ何も考えずにひたすら脚を動かしているほうが楽な気もするので敢えてそうして歩くのだが、丁石が目に入ることによって嫌でも距離というものを意識せざるをえなくなる。「これだけしんどい思いをして歩いてきたのに、まだ○丁しか進んでないのか・・・」と、ため息が漏れることもしばしばである。善意によって設置されたものとはわかってはいるのだが、僕のような未熟者には通行者の心の修行を促すために設置されたのではと思われてならない(ありがたいことである)。


横峰寺へ向かう山道にて 丁石










『 山道に設けられた丁石。何時頃造られ設置されたかは不明。 』


 やや長い坂道にさしかかり、少しスタミナも切れてきたので荷物を下ろし休憩を摂る。前後には人影もなく、辺りは鬱蒼と生い茂る木々のみ、聞こえてくるのは鳥のさえずりだけである。地面に腰を下ろし水分を補給しながら何も考えずに周りの景色を眺めたり空気を感じたりしながら時間を過ごしていると、なにか自分も自然の一部になったかのような錯覚を覚えてしまう。こういった時間・・・。じつは僕が遍路の旅の中で一番好きな時間なのである。わずらわしいものは何もなく、自然の栄養素を身体いっぱいに浴びながら満ち足りた気持ちになれる。遍路を始めた頃は、こういった時間をもつことはあっても、「あまりゆっくりしてられない、先を急がないと・・・」と目的地を目指すことばかりが頭をよぎり、その瞬間を楽しむ心の余裕が無かった。旅を重ねるごとに心の余裕が生まれ、お陰様で今では充分に自然と語らえる時間を楽しむことができるようになった。その「心の余裕」は日常生活の中に於いても生きているように思える。遍路の旅をここまでつづけてきてよかったと、つくづく感じるのだ。


 山道を進みだしてから、およそ1時間。険しい坂を登りきり、ようやく白滝奥之院経由の山道との合流地点にたどり着いた。白滝奥之院経由の山道(通称は香園寺道というらしい)は見たところ、なだらかな山道であった。そのなだらかな道を一人の女性のお遍路さんが此方に向かって歩いてくる。彼女には見覚えがあった。確か昨夜宿の本館の食間でお見かけしたような・・・。「同じ宿でしたよね?」と思わず声をかけると、「そうですよ!」との返事。そこから話が弾み、一緒に歩くこととなった。「そちらの道(香園寺道のこと)はきつくなかったですか?」と聞くと、「途中確かにしんどい場所はありましたけど・・・、そんなに大変だったという程では無かったですね。」とおっしゃる。さては僕の選んだ道は間違っていたのだろうか・・・。どうやら分の悪い道を選んでしまったようである。

 合流地点から少し歩いた場所にベンチをいくつか並べた休憩所があった。そこに1人の熟年お遍路さんが座っておられるのが見えたので、声をかけ話しを伺ってみる。この方は既に横峰寺を打ち終え、これから香園寺へ向かわれるそうである。ここから先の山道の様子を聞くと、「まだまだ先は長いよ。これからもっときつくなる。」との事。それから暫く3人で談笑する。60代とおぼしきこの熟年遍路さん、なんと一日に50km近くもの距離を歩かれるのだそうだ。「すごいですね!とても真似できないな。」と女性遍路さんと顔を見合わせながら苦笑い・・・。いやはや、最近の熟年世代のパワーには本当に頭が下がる思いだ。


横峰寺へ 香園寺奥の院経由の道との合流点 



『 白滝奥之院経由の山道との合流点。ここから先は少しは道が歩きやすくはなったが、それも束の間だった・・・。』


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六根清浄

1969年4月20日生まれ

京都市在住
2007年5月から始めた区切り打ち四国歩き遍路も4年目をもちましてようやく結願いたしました。支えてくださった皆様に感謝です。2巡目の構想も視野に入れながら、さらに日本の各地を「歩き旅」で訪れてみたいと考えています。自称『歩き中毒患者』(笑)


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