「迷い」から「無心」へ
秩父神社を後にして再びホテルのある番場町3丁目を探して歩き始めた僕であったが・・・。実は番場町3丁目は神社のすぐ傍だったのだ。神社の東隣に秩父まつり会館という建物があるのだが(このまつり会館では秩父神社の代表的な神事である秩父夜祭を再現したコーナーなどがあって、祭りとは関係のない時期に秩父を訪れた観光客にも祭りの全貌がよくわかるようになっている。僕は行かなかったが。)、その北隣の区域が3丁目だったのだ。詳しい地図など持っていない僕はそうとも知らず、よりによって南に向かって歩き始めた・・・。傍を通っている秩父鉄道の線路に沿ってブラブラと歩いていく。
(このへんが8丁目か・・・。で、この先は・・・、16丁目・・・?どうなってるんやろなー・・・。)
しばらく線路沿いの区域を徘徊することとなる。線路を越えた更に東の区域を歩いてみたり、また北に戻ったりと・・・。これだけ歩けば3丁目の所在地に気がついてもよさそうなものだが、何故か全く気がつかないところが自分らしい。間が抜けているというか滑稽でもある。我ながら情けない。
『秩父鉄道線路沿いの風景。
彼方に連なる山々が見えるこの土地の景色は盆地ならではのもの。京都盆地に生まれ育った僕にとってはとても親しみやすい風景である。山が見えると気分が落ち着くのだ。』
あちらこちらをブラブラ歩いているうちに、いい加減探すのにも疲れてきたし時間のほうも気になってきた。そろそろキリをつけなければ・・・。探して出会えぬホテルとは所詮縁がなかったと割り切ろう・・・・(探し方に問題があるのだが)。
番場町3丁目のホテルを探すことを諦めた僕は間近に聳え立つ大きなビルに向かって歩き出した。この界隈では最大級とも言える近代的な建物。秩父鉄道秩父駅である。
(あの駅の向かい側にもホテルがあったと思うんやけど・・・。そこにしよか・・・。)
結局、第2候補として目星はつけていた秩父駅前のビジネスホテルに宿をとることに決めた。料金は標準的といったところだ。少しでも経費を抑えたい僕としては、安いホテルで落ち着きたかったのだが・・・。時間の都合上、そんなことは言ってられなくなってきた。時は金なりともいう。宿泊料金のわずかな差額よりも巡礼に費やす時間のほうが貴重に思えたのだ。たとえ1時間であろうが2時間であろうが、無駄にしたくはなかった。歩き巡礼で過ごす時間はいつも僕にかけがえのないものを与えてくれる。それは決してお金で手に入れられるものではないのだ。
『秩父鉄道秩父駅。駅ビルの中には地場産業センターが入っていて、様々な郷土品やみやげものが販売されている。』
ところで、僕がなぜ今回の旅で経費を抑えることに拘っているのかというと、巡礼にどのくらいのお金がかかるのかがはっきりわからないからだ。移動費や食費は計算外だ。移動は全て自分の脚で行うつもりだし、食事も質素なもので充分。忘れてはならないのは、納経帳と納め札を購入することだ。初めて秩父霊場を回るわけだから、秩父霊場の納経帳が必要になるし納め札も観音霊場用のものを買い求めなければならない。ただ、これらもどれくらいの費用がかかるかはだいだい察しがつくのでそんなに心配はしていない。
問題は納経料である。札所で納経帳に墨書き・御朱印をもらうのには300円かかる。秩父霊場は札所間の距離が短い(30番以降は長くなる)ので、2日のうちにどれだけの札所を回ることができるのか、そこが予測がつかないのだ。多分、34ヶ所のうちのせいぜい3分の1・・・、10箇所くらいが限界だと思うのだが。それ以上回ることも可能かもしれない。ただそうなると納経料も結構なお値段となる・・・。せっかく秩父に来たのだから、できる限り多くの札所を回りたい、しかし懐具合の心配もしなくてはならない。・・・むずかしいところである。恥ずかしい話だが、巡礼をする前からこういった金銭的なことに頭が働いてしまうのは、まだまだ精神修行が足りないからだろう。
駅向かいのホテルに入り、フロントの係りの方に今晩宿泊したい旨伝えると、「チェックインは午後3時からとなりますので御予約だけでもなさいますか?」と訊ねられる。時間はもうすぐ正午になろうかといったところ。あれこれと考えてる時間はない。予約を入れさせてもらった。これにて宿の件は落着!といった感じである。
・・・さあ、ここからが本番だ。札所巡りを始めよう。
ホテルを出て空を見上げると、あれほど爽やかな秋晴れの空がどんより曇ってきている。いつの間に空模様が変わったのだろう・・・。気がつかなかったのかもしれない。宿探しをしながらあくせく歩いているうちに、とっくに空模様は変わっていたのだろう。空を眺める心の余裕もなく、あくせくするなんて・・・。
(あかんなあ・・・。もっと無心にならんと・・・。)
旅の始めと終わりは、様々なことに気が回ってしまうものだ。移動のこと、宿のこと、金銭的なこと・・・。特に金銭に関しては無意識のうちに神経を使ってしまう。まだまだ未熟といえば未熟なのだろう。しかし、そういった世俗の「迷い」を抱えながら生きているのが人間だ。所詮僕も世俗の中で育った一人の弱い人間に過ぎないのだから、しょうがないことなのかもしれない。精神向上は必要だ。だが「人間」以上になるつもりはない。世俗の迷いに翻弄され苦しむ人間の姿、それは実のところは美しいものであり愛しいものなのだ。僕は世俗の人間であることに満足している。世俗の迷い、大いに結構ではないか。
ただ、ここから先は「無心」になることを心がける。世俗の迷いも、その迷いに翻弄される自分を蔑む自分自身の心も、全てを受け入れて無心に成れるよう・・・。無心の巡礼が様々なことを教えてくれるからだ。
なにも考えずに歩いて行こう。札所をいくつ回ろうが、よくよく考えればどうでもいいことだ。ひたすらに歩いていけばいい。巡礼道を取り巻く景色の中をただひたすらに。そこで見えてくるものが実は最もかけがえのないものなのだから。
気持ちを切り替えて、秩父駅前を出発する。地図を片手に一番札所を目指して北へと歩きだした。
秩父神社を後にして再びホテルのある番場町3丁目を探して歩き始めた僕であったが・・・。実は番場町3丁目は神社のすぐ傍だったのだ。神社の東隣に秩父まつり会館という建物があるのだが(このまつり会館では秩父神社の代表的な神事である秩父夜祭を再現したコーナーなどがあって、祭りとは関係のない時期に秩父を訪れた観光客にも祭りの全貌がよくわかるようになっている。僕は行かなかったが。)、その北隣の区域が3丁目だったのだ。詳しい地図など持っていない僕はそうとも知らず、よりによって南に向かって歩き始めた・・・。傍を通っている秩父鉄道の線路に沿ってブラブラと歩いていく。
(このへんが8丁目か・・・。で、この先は・・・、16丁目・・・?どうなってるんやろなー・・・。)
しばらく線路沿いの区域を徘徊することとなる。線路を越えた更に東の区域を歩いてみたり、また北に戻ったりと・・・。これだけ歩けば3丁目の所在地に気がついてもよさそうなものだが、何故か全く気がつかないところが自分らしい。間が抜けているというか滑稽でもある。我ながら情けない。
『秩父鉄道線路沿いの風景。
彼方に連なる山々が見えるこの土地の景色は盆地ならではのもの。京都盆地に生まれ育った僕にとってはとても親しみやすい風景である。山が見えると気分が落ち着くのだ。』
あちらこちらをブラブラ歩いているうちに、いい加減探すのにも疲れてきたし時間のほうも気になってきた。そろそろキリをつけなければ・・・。探して出会えぬホテルとは所詮縁がなかったと割り切ろう・・・・(探し方に問題があるのだが)。
番場町3丁目のホテルを探すことを諦めた僕は間近に聳え立つ大きなビルに向かって歩き出した。この界隈では最大級とも言える近代的な建物。秩父鉄道秩父駅である。
(あの駅の向かい側にもホテルがあったと思うんやけど・・・。そこにしよか・・・。)
結局、第2候補として目星はつけていた秩父駅前のビジネスホテルに宿をとることに決めた。料金は標準的といったところだ。少しでも経費を抑えたい僕としては、安いホテルで落ち着きたかったのだが・・・。時間の都合上、そんなことは言ってられなくなってきた。時は金なりともいう。宿泊料金のわずかな差額よりも巡礼に費やす時間のほうが貴重に思えたのだ。たとえ1時間であろうが2時間であろうが、無駄にしたくはなかった。歩き巡礼で過ごす時間はいつも僕にかけがえのないものを与えてくれる。それは決してお金で手に入れられるものではないのだ。
『秩父鉄道秩父駅。駅ビルの中には地場産業センターが入っていて、様々な郷土品やみやげものが販売されている。』
ところで、僕がなぜ今回の旅で経費を抑えることに拘っているのかというと、巡礼にどのくらいのお金がかかるのかがはっきりわからないからだ。移動費や食費は計算外だ。移動は全て自分の脚で行うつもりだし、食事も質素なもので充分。忘れてはならないのは、納経帳と納め札を購入することだ。初めて秩父霊場を回るわけだから、秩父霊場の納経帳が必要になるし納め札も観音霊場用のものを買い求めなければならない。ただ、これらもどれくらいの費用がかかるかはだいだい察しがつくのでそんなに心配はしていない。
問題は納経料である。札所で納経帳に墨書き・御朱印をもらうのには300円かかる。秩父霊場は札所間の距離が短い(30番以降は長くなる)ので、2日のうちにどれだけの札所を回ることができるのか、そこが予測がつかないのだ。多分、34ヶ所のうちのせいぜい3分の1・・・、10箇所くらいが限界だと思うのだが。それ以上回ることも可能かもしれない。ただそうなると納経料も結構なお値段となる・・・。せっかく秩父に来たのだから、できる限り多くの札所を回りたい、しかし懐具合の心配もしなくてはならない。・・・むずかしいところである。恥ずかしい話だが、巡礼をする前からこういった金銭的なことに頭が働いてしまうのは、まだまだ精神修行が足りないからだろう。
駅向かいのホテルに入り、フロントの係りの方に今晩宿泊したい旨伝えると、「チェックインは午後3時からとなりますので御予約だけでもなさいますか?」と訊ねられる。時間はもうすぐ正午になろうかといったところ。あれこれと考えてる時間はない。予約を入れさせてもらった。これにて宿の件は落着!といった感じである。
・・・さあ、ここからが本番だ。札所巡りを始めよう。
ホテルを出て空を見上げると、あれほど爽やかな秋晴れの空がどんより曇ってきている。いつの間に空模様が変わったのだろう・・・。気がつかなかったのかもしれない。宿探しをしながらあくせく歩いているうちに、とっくに空模様は変わっていたのだろう。空を眺める心の余裕もなく、あくせくするなんて・・・。
(あかんなあ・・・。もっと無心にならんと・・・。)
旅の始めと終わりは、様々なことに気が回ってしまうものだ。移動のこと、宿のこと、金銭的なこと・・・。特に金銭に関しては無意識のうちに神経を使ってしまう。まだまだ未熟といえば未熟なのだろう。しかし、そういった世俗の「迷い」を抱えながら生きているのが人間だ。所詮僕も世俗の中で育った一人の弱い人間に過ぎないのだから、しょうがないことなのかもしれない。精神向上は必要だ。だが「人間」以上になるつもりはない。世俗の迷いに翻弄され苦しむ人間の姿、それは実のところは美しいものであり愛しいものなのだ。僕は世俗の人間であることに満足している。世俗の迷い、大いに結構ではないか。
ただ、ここから先は「無心」になることを心がける。世俗の迷いも、その迷いに翻弄される自分を蔑む自分自身の心も、全てを受け入れて無心に成れるよう・・・。無心の巡礼が様々なことを教えてくれるからだ。
なにも考えずに歩いて行こう。札所をいくつ回ろうが、よくよく考えればどうでもいいことだ。ひたすらに歩いていけばいい。巡礼道を取り巻く景色の中をただひたすらに。そこで見えてくるものが実は最もかけがえのないものなのだから。
気持ちを切り替えて、秩父駅前を出発する。地図を片手に一番札所を目指して北へと歩きだした。