今回から洛陽三十三ヵ所観音札所のことについて載せていきたいと思っています。四国歩き遍路の体験談と平行してやっていきたいと考えていますので、よろしくお願いします。


 四国霊場を歩くようになってから、四国八十八ヵ所以外の巡礼の旅というものにも興味をもつようになっていました。熊野古道、西国三十三ヵ所、坂東三十三ヵ所といった有名なものはもちろんですが、その他の祈りの道というものにも興味が湧いています。生きている間に、歩ける限りそれらの道を歩いてみたいと考えておりますが、当面の目標は四国霊場を歩き切ることです。連休などの期間は今のところはできる限り四国巡礼に当てたいと思っています。
 ただ、西国の観音霊場の巡礼にも行ってみたいという気持ちもあるのです。僕は京都在住なので、三十三ヵ所の中でも京都府内にある霊場なら気軽に参拝にも行けるのですが、それ以外の場所に行くとなると、やはり連休などの期間を当てないと無理なのです。連休は四国巡礼に当てたい・・・、まずは京都府内の霊場だけでも廻ることを考えてもよいのですが・・・。しかし、そうすると、府外の霊場にも興味が湧いてきます。「続き」というものを意識してどうしても行きたくなってしまうでしょう。京都の霊場だけで気持ちに区切りをつけられればよいのですが・・・。

 そんな時に知ったのが、洛陽三十三ヵ所の存在でした。

 京都市民でありながら、情けないことに、最近までその存在を知らなかったのです。初めて知ったときには、「ああ、最近は霊場巡りもブームになっているから、京都のお寺さんが協力して、そういうものをつくったんかいなー。」ぐらいにしか思っておりませんでしたが、調べてみると、これがとんでもない勘違いだったということを思いしらされたのでした。

 御存知の方もいらっしゃるでしょうが、洛陽三十三ヵ所の歴史について簡単にふれていくことにします。その起源は古く平安時代の末期で、あの有名な後白河院が天皇であられた頃、西国三十三ヵ所の巡礼は、当時はかなり困難なものであったことを慮られ、短い距離でもっと気軽に巡礼できるものとして定められたということだそうです。ちなみに、この後白河院という方は、平家物語などでは結構腹黒い人物として描かれている面もありますが、実は大変信心深い方でもあったようです。紀州熊野大神への信仰も厚く、度々熊野詣をされたり、都に新熊野神社を創設されるなど、寺社の興隆に力を尽くされたようです。
 室町時代には行願寺にはじまり北野天満宮に終わる三十三の札所が定着しましたが、応仁の乱後、札所の廃絶があり一時衰退しますが、江戸時代になって天皇の勅命で再び三十三の札所が定められ、多くの巡礼者が訪れるようになりました。現在の六角堂に始まって清和院におわるという順路は、この時期から始まったそうです。(参考文献「洛陽三十三所観音巡礼」平成洛陽三十三所観音霊場会発行)

 京都には仁和寺にも「御室八十八ヵ所霊場」というものがあります。いわゆる四国霊場のミニチュア版で、距離にして3キロメートル、時間にして僅か2時間で八十八の札所を参拝できるというものです。この霊場は江戸時代に創られたものですが、平安の昔から京都の貴族の方々は、遠方の聖地に思いを馳せて、こういった「ミニ霊場」を都につくらせていたわけですね。「ミニ霊場」とは言っても、古い歴史があるのです。我々京都の人間が誇りにできる文化財ではないでしょうか。

 僕も遠方の巡礼の地に思いを馳せると同時に、地元の文化財などをよく見直してみる必要があると思ったわけです。普段、見慣れた景色の中にあり素通りしてしまいがちな京都の寺院を実際に訪ねたりして検証してみる必要がある。
 
 そういう気持ちから、そして観音札所というものにもふれてみたいという思いから洛陽三十三ヵ所巡りを始めることにしました。その時に感じたことなどを載せていきたいと思っています。実は今日から廻りはじめたのですが、その時の模様は次回からお伝えしていきたいと思います。