気ままに歩いて候。

あせらず、くさらず、歩いていきましょう。 2007年5月の連休から始めた区切り打ちの四国歩き遍路の思い出を綴った記事を中心に掲載しています。

四国遍路 - コラム

歩いて気づかされること

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「人生即遍路」 先日、5月の連休に行った四国遍路の日記をようやく書き終えることができた。僕の「ノート日記」というのは、以前にもお話したことはあるとは思うのだが四国から帰ってからつけているものなので、およそ「日記」と呼べるものには当たらないかもしれない。今回のノート日記は今までにない長いものとなってしまった。ページ数がおよそ240頁、書き始めたのが連休後の時期だったから一月以上もの時間を費やしたこととなる。もちろん、全く書かない日もあったのだが、その分を差し引いても一月は下らない時間を充てたことになるだろう。遍路の回数を重ねるほどにノート日記の文字数はますます増えてきている。どういうことなのか、少し考えてみた。


 四国遍路を始めた頃、時期でいうと昨年の5月・8月あたりまでは全てが新鮮だった。沢山の驚きや感動の連続だった。それ以降になると、少しは遍路にも慣れてきたのか、子供のように目を輝かせながら四国路を歩いた思い出はない。新鮮な衝撃よりも「考えさせられること」がより多くなってきたように思う。一日を通して歩くという行為、殊に同行二人の精神をもって歩くことを通じて、自分の内面を掘り下げて様々な想いが湧くのである。また人との出会いが、「縁」といった日常の世界に於いて聞きなれた言葉の深い意味を身をもって感じさせてくれるのだ。

 四国路で「考えさせられること」は、僕にとってはかけがえのない財産になっている。僅かな思い出や感動も永遠に忘れたくはない、残しておきたい。そういった思いから、ノート日記の文字数は増え続けているのだろう。


 先月の連休に行った遍路の旅は、初めて「修行の道場」土佐の国に足を踏み入れたということもあり、本当に色々なこと感じ、学ぶことができたように思う。それだけに日記はかつてない膨大なものになってしまった。あまりに時間がかかりすぎたために、途中で書くのを諦めかけたときもあった。時間が経てば経つほど、記憶というものは曖昧になってゆくものだ。大まかなことは頭に残っていても、細かいことは忘れてしまう。僅かなことでも書き留めておきたい僕にとっては、記憶をふりしぼりながらのつらい作業となってしまった。どうしても思い出せないこともあった。曖昧な記述で済ませば作業ははかどったのだろうが、「そんな日記やったら、書く意味ないやん」という妥協できない想いがあり、なかなか果果しくいかなかった。そのうちにノートを開げてペンをもつことすら苦痛に思える日々が続くこととなったのだが、毎日少しづつページを増やしていった。少しづつ、いつかはゴールに辿り付けることを信じながら。
 まるで四国路を歩いているかのような時間だった。少しづつページを増やす作業は一歩一歩遠い目的地にむかって進むかのようだった。日々ノートに向かう時間の中でも僕は「同行二人」を体験していたのかもしれない。つらかったけども焦りというものはなかった。いつかは書き終えることができるという確信めいたものが頭に根を張っていたように思う。確信というのか・・・、やはりお大師様が僕を支えてくれていたのかもしれない。つらい時間を焦らずに過ごしていく精神、これは先月の遍路の旅が教えてくれたものである。

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鉦打坂薬師堂・鉦打大師堂

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 今日は、先月の連休におこなった4度目の歩き遍路(22番平等寺から23番薬王寺まで)の旅の中で、とても印象に残った御堂の話をしたいと思います。

 
 鉦打坂薬師堂と鉦打大師堂。ここを訪れたのは11月3日、夕暮れ間近の午後4時くらいだったと思います。月夜御水庵に立ち寄り月夜坂を越えて国道55号線との交差点に着いた際、ふと目に入った2つの小さな御堂、それが鉦打坂薬師堂と鉦打大師堂でした。
 日暮れも近い時間帯でしたから、先を急いでいましたので、ヘタをするとそのまま通りすぎていたかもしれません。さりげない佇まいで、国道の傍にひっそりと建っている小さな御堂、それがなにか訴えかけてくるような気がして、どうしても素通りすることができずにお参りさせていただいたのですが、2つの御堂の間に建ててある立て札を読んで、この御堂が実は昔の遍路道を物語る大変重要な場所であったことを知らされたのです。


鉦打薬師堂説明書き  2007.11 のコピー.jpg
 この立て札は平成7年に鉦打講中(「講」とは仏事や神事などを行う結社、「講中」とは講をつくって寺社に参詣する人々のことをいう)の代表の方がお書かきになられたもので、「鉦打坂薬師堂由来」と「鉦打大師堂由来」について詳しく解説されていました。

 
 
鉦打坂薬師堂の由来
 文中によると(ほぼ抜粋)、昔、御堂の裏には鉦打坂と呼ばれる山道が延々と続いており、土佐街道をゆく旅人、主に四国88ヶ所を巡礼するお遍路にとっては街道随一の命がけの難所であったそうです。そのあまりの険しさに行き暮れて、途中で病気にかかり命を落とされた方も大勢いらっしゃったそうです。こういった惨い現状を里の人々が見るに見かねて、養生所を建てて病人を手当てされていたということです。そして、不幸にも亡くなった方のためには供養塔を建てて、その御霊を懇ろに弔われたそうですが、のちの享保4年(1717)に衆生の病苦を救い無明の痼疾を癒すという「薬師瑠璃光如来」を灌頂祈願されたのが、薬師堂の始まりと伝えられているということです。明治の時代になって国道が敷設されてからは、鉦打坂を通る旅人も絶えて薬師堂の参詣者も鉦打講中の方を除いては少なくなり、多くの人の記憶の中から忘れ去られようとされていましたが、平成2年の福井治水ダム建設の折に仮移転された後、平成7年にかつて建立されていた場所と由緒の深い、現在の場所に遷座されたということです。続きを読む

金剛杖との御縁

 23番札所薬王寺を残して、阿波の国の霊場をほぼ歩ききることのできた自分ですが、まだまだ先は長く、お遍路としても駆け出しにすぎません。そんな僅かな期間ではありますが、僕の今までの遍路の旅をいつも支えてくれたのが金剛杖でした。

 僕が使っている金剛杖は、実は母から譲り受けたものです。バスでの四国遍路を2周終えられた母が「是非使ってほしい」と言われて僕に託されたのですが、この杖には因縁というのか、深い御縁があったように思うのです。はじめての杖との出会いは高野山でした。


 まだ僕が高校生だった頃、家族で高野山に登りました。とある宿坊で一泊し、翌日、山中の寺々などを回ったりしてのどかな夏の一日を過ごしておりましたが、そこで予期せぬ出来事がおこります。母が石段で足をくじいてしまったのです。症状があまり良くなさそうだったので、「これはなにか杖のようなものがいるな・・・。」と思った僕は、近くのお店(高野山中なので仏具関連の店だったと思います)に行って金剛杖を一本買ってきて母に渡したのですが・・・、何分あの当時の僕は仏心のかけらはひとつもなく、ましてや、金剛杖がどういうものなのかという知識すらありませんでした。ただ母の歩行の助けになればという単純な思いから買い求めたのです。

 それから十数年間、金剛杖は我が家の押入れに眠ったままだったのですが・・・。

 僕が30を過ぎた頃、母が四国遍路をはじめ、ようやく金剛杖は本来の役割を果たすこととなり、今は僕がこの杖を受け継ぐこととなりました。

 思えば、不思議な御縁なのかもしれません。

 階段で転んだりつまづいたりしたことのなかった母が、なぜ不意にあの時、あの高野山で怪我をしてしまったのか。偶然の出来事なのかもしれません、冷静に考えればそういうことなのでしょう。しかし、僕はそう単純には考えられない。母はこの時から、四国遍路をする運命だったのではないのか。高野山という場所で偶然にも金剛杖を手にするということには、意味があったのかもしれません。そして、その御縁が僕につづいている。僕もあの瞬間から四国からお呼びがあったのかもしれません。

 普段の生活の中でも、なにげないと自分でおもっている出来事が、実は大変な意味をもっていたというようなことが意外とあるのでしょうね。
 



六根清浄

1969年4月20日生まれ

京都市在住
2007年5月から始めた区切り打ち四国歩き遍路も4年目をもちましてようやく結願いたしました。支えてくださった皆様に感謝です。2巡目の構想も視野に入れながら、さらに日本の各地を「歩き旅」で訪れてみたいと考えています。自称『歩き中毒患者』(笑)


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