先日、5月の連休に行った四国遍路の日記をようやく書き終えることができた。僕の「ノート日記」というのは、以前にもお話したことはあるとは思うのだが四国から帰ってからつけているものなので、およそ「日記」と呼べるものには当たらないかもしれない。今回のノート日記は今までにない長いものとなってしまった。ページ数がおよそ240頁、書き始めたのが連休後の時期だったから一月以上もの時間を費やしたこととなる。もちろん、全く書かない日もあったのだが、その分を差し引いても一月は下らない時間を充てたことになるだろう。遍路の回数を重ねるほどにノート日記の文字数はますます増えてきている。どういうことなのか、少し考えてみた。
四国遍路を始めた頃、時期でいうと昨年の5月・8月あたりまでは全てが新鮮だった。沢山の驚きや感動の連続だった。それ以降になると、少しは遍路にも慣れてきたのか、子供のように目を輝かせながら四国路を歩いた思い出はない。新鮮な衝撃よりも「考えさせられること」がより多くなってきたように思う。一日を通して歩くという行為、殊に同行二人の精神をもって歩くことを通じて、自分の内面を掘り下げて様々な想いが湧くのである。また人との出会いが、「縁」といった日常の世界に於いて聞きなれた言葉の深い意味を身をもって感じさせてくれるのだ。
四国路で「考えさせられること」は、僕にとってはかけがえのない財産になっている。僅かな思い出や感動も永遠に忘れたくはない、残しておきたい。そういった思いから、ノート日記の文字数は増え続けているのだろう。
先月の連休に行った遍路の旅は、初めて「修行の道場」土佐の国に足を踏み入れたということもあり、本当に色々なこと感じ、学ぶことができたように思う。それだけに日記はかつてない膨大なものになってしまった。あまりに時間がかかりすぎたために、途中で書くのを諦めかけたときもあった。時間が経てば経つほど、記憶というものは曖昧になってゆくものだ。大まかなことは頭に残っていても、細かいことは忘れてしまう。僅かなことでも書き留めておきたい僕にとっては、記憶をふりしぼりながらのつらい作業となってしまった。どうしても思い出せないこともあった。曖昧な記述で済ませば作業ははかどったのだろうが、「そんな日記やったら、書く意味ないやん」という妥協できない想いがあり、なかなか果果しくいかなかった。そのうちにノートを開げてペンをもつことすら苦痛に思える日々が続くこととなったのだが、毎日少しづつページを増やしていった。少しづつ、いつかはゴールに辿り付けることを信じながら。
まるで四国路を歩いているかのような時間だった。少しづつページを増やす作業は一歩一歩遠い目的地にむかって進むかのようだった。日々ノートに向かう時間の中でも僕は「同行二人」を体験していたのかもしれない。つらかったけども焦りというものはなかった。いつかは書き終えることができるという確信めいたものが頭に根を張っていたように思う。確信というのか・・・、やはりお大師様が僕を支えてくれていたのかもしれない。つらい時間を焦らずに過ごしていく精神、これは先月の遍路の旅が教えてくれたものである。
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四国遍路を始めた頃、時期でいうと昨年の5月・8月あたりまでは全てが新鮮だった。沢山の驚きや感動の連続だった。それ以降になると、少しは遍路にも慣れてきたのか、子供のように目を輝かせながら四国路を歩いた思い出はない。新鮮な衝撃よりも「考えさせられること」がより多くなってきたように思う。一日を通して歩くという行為、殊に同行二人の精神をもって歩くことを通じて、自分の内面を掘り下げて様々な想いが湧くのである。また人との出会いが、「縁」といった日常の世界に於いて聞きなれた言葉の深い意味を身をもって感じさせてくれるのだ。
四国路で「考えさせられること」は、僕にとってはかけがえのない財産になっている。僅かな思い出や感動も永遠に忘れたくはない、残しておきたい。そういった思いから、ノート日記の文字数は増え続けているのだろう。
先月の連休に行った遍路の旅は、初めて「修行の道場」土佐の国に足を踏み入れたということもあり、本当に色々なこと感じ、学ぶことができたように思う。それだけに日記はかつてない膨大なものになってしまった。あまりに時間がかかりすぎたために、途中で書くのを諦めかけたときもあった。時間が経てば経つほど、記憶というものは曖昧になってゆくものだ。大まかなことは頭に残っていても、細かいことは忘れてしまう。僅かなことでも書き留めておきたい僕にとっては、記憶をふりしぼりながらのつらい作業となってしまった。どうしても思い出せないこともあった。曖昧な記述で済ませば作業ははかどったのだろうが、「そんな日記やったら、書く意味ないやん」という妥協できない想いがあり、なかなか果果しくいかなかった。そのうちにノートを開げてペンをもつことすら苦痛に思える日々が続くこととなったのだが、毎日少しづつページを増やしていった。少しづつ、いつかはゴールに辿り付けることを信じながら。
まるで四国路を歩いているかのような時間だった。少しづつページを増やす作業は一歩一歩遠い目的地にむかって進むかのようだった。日々ノートに向かう時間の中でも僕は「同行二人」を体験していたのかもしれない。つらかったけども焦りというものはなかった。いつかは書き終えることができるという確信めいたものが頭に根を張っていたように思う。確信というのか・・・、やはりお大師様が僕を支えてくれていたのかもしれない。つらい時間を焦らずに過ごしていく精神、これは先月の遍路の旅が教えてくれたものである。
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