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切幡寺の大塔
               『境内のベンチから大塔を眺める・・・』



 境内で束の間の長閑な時間を過ごした。やはり山寺はいいものだ。濃密な自然の空気を感じながら、鐘の音や本堂や大師堂から流れてくる読経の声などが耳にはいってくると真夏の暑さも気にならなくなってしまう。心が安らぐのだ。山の精気が、或いは歴史を刻んだ寺のもつ霊気のようなもの、そして参拝者の信心がつくりだす空気がそんな気持ちにさせてくれるのかもしれない。

 自販機でペットボトルのミネラルウォーターを2本購入し、1本は飲み干してもう一本はザックに詰める。脚の疲れもとれてきたし、また歩きたくなってきた。名残惜しいがそろそろ出発しなければ。荷物を背負い菅笠をかぶる。金剛杖を手に持ち次の札所へ向けて歩きはじめる。


 石段も下りは楽である。そしてなんというか気分がいい。この長い石段を無事クリアできたという達成感というか満足感のようなものがある。まあ所詮は独り善がりの感傷にすぎないのだけれども・・・。でも他の参拝者の方達も同じ気持ちでこの石段を下られるのではないかと思う。此処へ来る途中ですれ違ったお遍路さん達の清々しい表情が思い出される・・・。おかげさまで僕も今あの人達の心持になれたような気がする。石段を経験したことで感じることのできるこの清々さこそがこの霊場で得られる最大の御利益なのかもしれない。
 下からはまだ沢山の参拝者の方々が懸命に石段を登って来られる。すれ違い際に挨拶を交わしながら皆さんの御様子を窺っていると、やはり段数を数えておられる人は結構いらっしゃった。肩で息をしながら、「・・・よいしょ!!250、251!!」と頑張って数えておられる若い父親の姿なんかも見られる。その傍らで小さな娘さんが「頑張れー!!」と応援している。子供にとってはこの石段はたいして苦にもならないようだ。なんだかとても楽しそうである。それにしてもこの段数を数えてしまうという人の心理というのは一体なんなのだろうか・・・。面白い現象である。



 石段を下りきったところで見覚えのある姿を見かけた。

 あの車輪の小さな自転車に乗った女の子のお遍路さんである。丁度、今到着したらしく、両手で自転車を引きながら停める場所を探しているようだった。

 (何故・・・??歩きよりも自転車のほうが遅れているのは何故・・・??)
 
 素朴な疑問が湧いた。法輪寺から歩き始めて間もない頃にとっくに僕やあのおっちゃんを颯爽と追い抜いていった筈なのに・・・。

 一概に「自転車のほうが速い」とは言い切れないということなのだろうか。僕達歩き遍路は確かに進む速度は遅い。でも遅いが故のメリットもある。へんろ道を示す標識(へんろみち保存会によって設置された小さな標識や電柱などに貼り付けられた小さなワッペン)を見落とすことは滅多にないし、要所要所で地図を出して確認しながら進むことができる。自転車の場合は(僕は自転車遍路は未経験なのでなんともいえないが)速いが故に長い距離を一気に進むため、一度道を間違えたりすると厄介な状況になってしまうのではないだろうか。細かい標識も見落としやすいかもしれないし、頻繁に地図を荷物から引っ張りだして確認するのも結構手間だろう。自転車の旅に慣れている人ならともかく、そうでない人ならメリット半分リスクも半分といったところではないだろうか。道の選択に間違えがなければ問題はないのだけれども・・・。

 この女の子が僕よりも到着が遅れた原因が道を間違えたためであったかどうかはわからない。自転車の利点を生かしてひょっとしたら別の場所に脚を伸ばしていたのかもしれない。まあなんにせよ、またこうやってお会いすることができたわけだ。なんとなく、「この子はまたちょくちょく姿を見かけることがあるかもしれない」という予感めいたものを感じた。やはり御縁のようなものがあったのかもしれない。

 
 修復中の山門に一礼して切幡寺をあとにした。再び県道139号線と237号線との交差点に戻るため、もと来た道を歩いて行く。ここより、遍路道は南へと大きく針路を変えることとなる。一番札所霊山寺からつづいた吉野川以北の旅は残すところあと僅かだ。




 ● 第十番札所 得度山 切幡寺
   
   〔御本尊〕 千手観世音菩薩
   〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく
   〔御詠歌〕 欲心をただひとすじに切はた寺 のちの世まで障りとぞなる