9番札所法輪寺へ。


 予定通りと言いますか、なるべくしてそうなったと言いますか・・・。

 やはり法輪寺が今回の遍路の打ち止めの札所ということになりそうでした。熊谷寺から歩き出した時間が3時半くらいでしたか。結構、「いい時間」になってしまっていました。脚の痛みで歩みが遅くなったということもあるでしょうが、それにしてものんびりしすぎていたかもしれませんね。特に熊谷寺での滞在時間が長くなってしまいました。あの御詠歌のせいかもしれませんね・・・。
 「法輪寺で今回は打ち止め」といったおぼろげな予定が、のんびりとした遍路にしてしまったのかもしれません。仮に無理に急いたところで、次の札所切幡寺で参拝を終えて墨書と御朱印を貰うことはできなかったでしょうが・・・。
 「のんびり遍路」。これはこれでよかったのかもしれません。時間を気にせず、距離も気にせず。何にもとらわれることのない気ままな時間を過ごすことができた。ただ、ひたすらへんろ道の景色に、札所の空気に向き合うことができたのです。これは、ある意味、とても贅沢な遍路のスタイルだと思うのです。遍路をはじめて2日目にして、このような贅沢な時間を味わうとは・・・。今から思い返すと、「何やってたんや、オレは・・・」と笑ってしまいますが。


 法輪寺へ向かう道が、今回の遍路では最後に歩くことになるへんろ道。最後なんだから・・・。このまま、「のんびり遍路」をつづけよう、そう思いながら歩き出しました。時間は1時間半ほど残されている。急ぐこともない。ゆっくりと遍路の世界と向き合いながら贅沢な時間を過ごしてみてもいいじゃないか。本当にこれが最後なんだから・・・。

 たった2日間だけだったけども、頑張って歩いたこのへんろ道。短い時間でしたが、色々なことを教えてくれた・・・。普段の生活の中で忘れかけていた「優しい気持ち」というものを思い出させてくれた。この道には優しさが詰まっている。道ゆく先で出会った人達の笑顔、気さくに声をかけてくださった地元の方達、道先を教えてくれる様々な道しるべ。「自分は一人の力で歩いてるんじゃない、まわりに力を貰って歩かされてるんだ」、そんな素直な気持ちになれた自分と向き合うことで、今まで何が自分に足りなかったのか、本来の自分って何だ、普段の生活の中では考えても出なかった答えがどんどん出てくる・・・。へんろ道とは、僕にとってはそんな空間でした。

9番法輪寺へ 道しるべ19番法輪寺へ 道しるべ2







9番法輪寺へ 道しるべ3


 



 『様々な道しるべ達。詳しい地図を持たなかった僕でも、これらのお陰で道に迷うことはなかったのです。設置された方々には感謝の気持ちでいっぱいです。行く先を教えてくれるだけではなく、心の在りようも教えて下っているような気がしてなりません。』


 霊場を参拝する、それは四国遍路をする上で最も重要なことであり、御本尊の仏様や大師堂の御大師様にふれることのできるありがたい時間です。しかし、このへんろ道に詰まっている地元の方々の愛情、そして遠い昔にこの道を歩かれた方々の想いにふれる時間をもつということも霊場を訪れる以上の価値があると僕は思います。全ては「大師信仰」が生み出した産物であり、お大師様の人々へ向けられた「慈悲」の心が今もなお生き続いているという証なのです。そういったものに出会う時間は大変有意義なものだと思うのです。

 そんなへんろ道ともお別れのときが近づいてきていました。できれば、ずっと歩きつづけたい、この空間に居続けたい、そんな名残惜しさがありました。
 
 「明日の朝には帰宅の途につかなければならない、故に今回は法輪寺まで・・・。何故、明日の朝のバスの便をとってしまったのだろう。もう少し遅い時間にすればよかった・・・。」(朝の便しか予約がとれなかったという事情もありましたが。)

 せめて一歩一歩心に刻みながら歩いて行こう。

 

 2日間、僕を支えてくれた金剛杖。杖との二人同行も、もうすぐ終わってしまう。

 杖よ、この2日間ご苦労さん。また近いうちに必ず一緒に歩こうな。