吉野川を渡ってからの道程は、本当に心身共に厳しいものがありました。できれば、その様子を詳しくお話できればよかったのですが、当時つけていた日記にその時の記述がほとんどないのです。
 
 半年以上の時間が経過しているにもかかわらず、5月の遍路の様子をブログに掲載できるのも、当時つけていた日記のおかげなのです。日記を読むと、あの頃に体験した記憶が、はっきりとよみがえってくる。ここの札所ではこうだった、この道ではこんなものがあったという記述があると、「そういえば、それだけじゃなくて、こんなこともあったし、あんなこともあったな・・・」というかんじで、頭の中で当時見た景色や経験したこと、感じたことなどが、どんどん思い出されてくるのです。記憶の引き出しを開ける鍵のようなものですね。こまめに日記を書いていてよかったと思います。

 ですが、この初日の最後のほうの道程の記述は「しんどかった」「あまり記憶がない」というものしかないんですね。日記に頼らず、今思い出そうとしても、確かに「あまり記憶がない」わけです。もうフラフラの状態で歩いてましたから。頭もボーッとしながら、脚を前に動かしていただけでした。なんとか思い出せることといえば・・・、脚にほとんど感覚が無くなっていたことです、両足の踵に感じる激しい痛みを除けば。脚を踏み出すたびにズキズキする。マメができていたんですね、両足共に大きなヤツが。大日寺から地蔵寺にかけて、それから安楽寺までのラストスパートで、かなり飛ばしながら歩いた。その時に両踵は相当ダメージをうけていたんでしょう。調子にのって慣れないことをしたばっかりに・・・。そのツケがまわってきたということですね。マメをつぶさないように、ゆっくりと歩くように心がけていたと思います。
 
 そして、心のなかで「駅はまだか!!」と叫んでいました。

 安楽寺をあとにした時は、「なんとか麻植塚まで歩いてみるか。」と安易に考えていましたが、どうやら途方も無い発想をしていたことに気づかされたわけです。夕方まで遍路道を歩いた疲れの溜まった状態では、とてもじゃありませんが、そんなところまでは歩けない。もはや満身創痍(ちょっと大げさか?)の今の状態では1KMの距離ですら歩けない。というか、歩きたくない!!「歩き病」にかかった者の無残な姿をさらしていました。もう充分に自分の脚は歩くことに満足しました、もう限界です・・・、そう思いながら交通手段で移動する方法を考えてましたね。タクシーも全く見かけませんでしたし、この地域のバスのこともいまいちよくわからないので、もうシンプルに「とにかく電車だ!JRだ!徳島線だ!」と念じながら、南へ歩きました。徳島線が通っているのは、南の方角でしたから。一番近いと思われる駅が牛島駅だったのです。麻植塚のひとつ隣の駅ですが、わずか一区間ですら、もう電車で移動したかったのでした。

 牛島駅を目標にして最後の力をふりしぼって歩きました・・・。とはいっても、駅までは、まだまだ距離があったのですが。


 なんとか当時の心境だけは思い出すことができましたね(笑)。歩いた場所の様子などは思い出せませんが。しんどい記憶というものは、心の奥底にこびりついているものですね。あと少しですが、しんどかった話はつづきます・・・・。