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 今日は、先月の連休におこなった4度目の歩き遍路(22番平等寺から23番薬王寺まで)の旅の中で、とても印象に残った御堂の話をしたいと思います。

 
 鉦打坂薬師堂と鉦打大師堂。ここを訪れたのは11月3日、夕暮れ間近の午後4時くらいだったと思います。月夜御水庵に立ち寄り月夜坂を越えて国道55号線との交差点に着いた際、ふと目に入った2つの小さな御堂、それが鉦打坂薬師堂と鉦打大師堂でした。
 日暮れも近い時間帯でしたから、先を急いでいましたので、ヘタをするとそのまま通りすぎていたかもしれません。さりげない佇まいで、国道の傍にひっそりと建っている小さな御堂、それがなにか訴えかけてくるような気がして、どうしても素通りすることができずにお参りさせていただいたのですが、2つの御堂の間に建ててある立て札を読んで、この御堂が実は昔の遍路道を物語る大変重要な場所であったことを知らされたのです。


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 この立て札は平成7年に鉦打講中(「講」とは仏事や神事などを行う結社、「講中」とは講をつくって寺社に参詣する人々のことをいう)の代表の方がお書かきになられたもので、「鉦打坂薬師堂由来」と「鉦打大師堂由来」について詳しく解説されていました。

 
 
鉦打坂薬師堂の由来
 文中によると(ほぼ抜粋)、昔、御堂の裏には鉦打坂と呼ばれる山道が延々と続いており、土佐街道をゆく旅人、主に四国88ヶ所を巡礼するお遍路にとっては街道随一の命がけの難所であったそうです。そのあまりの険しさに行き暮れて、途中で病気にかかり命を落とされた方も大勢いらっしゃったそうです。こういった惨い現状を里の人々が見るに見かねて、養生所を建てて病人を手当てされていたということです。そして、不幸にも亡くなった方のためには供養塔を建てて、その御霊を懇ろに弔われたそうですが、のちの享保4年(1717)に衆生の病苦を救い無明の痼疾を癒すという「薬師瑠璃光如来」を灌頂祈願されたのが、薬師堂の始まりと伝えられているということです。明治の時代になって国道が敷設されてからは、鉦打坂を通る旅人も絶えて薬師堂の参詣者も鉦打講中の方を除いては少なくなり、多くの人の記憶の中から忘れ去られようとされていましたが、平成2年の福井治水ダム建設の折に仮移転された後、平成7年にかつて建立されていた場所と由緒の深い、現在の場所に遷座されたということです。
 鉦打大師堂の由来
 その昔、御大師様が四国遍歴をされていた頃、第22番霊場平等寺から月夜坂を越えて土佐街道に入られた際、このあたりを通られたのですが、姥目崖を下り渓流を渡られて、当時は恐ろしい魔物が住むといわれていた弥谷渓谷に足を踏み入れられたそうです。そして、彼の地を奥の院修験の場と定められて厳しい修行をされたということです。即身成仏を唱えられ如意輪観音七不思議の霊蹟(1.不二地蔵 2.ゆるぎ石 3.笠地蔵 4.御硯り石 5.四寸通し 6.日天月天 7.胎内くぐり)を遺されたのですが、それらの霊蹟の他に様々な石仏が祭られているのが、秘境弥谷観音であるということです。近在の里人の救済に力を尽くされた御大師様の遺徳を偲んで、弘化2年(1845)に御堂が建立され弥谷観音の前堂とされたのが大師堂の起源だと伝えられているそうです。「鉦打坂のお大師さん」として多くの人に親しまれ、篤い信仰を集めていたということですが、薬師堂と同じく、福井治水ダム建設工事の折に仮移転され、平成7年に現在の場所に遷座されたものだそうです。



 四国の遍路道を歩くと、小さな御堂や小さな遺跡、道標などを見かけることがたくさんありますが、さりげなく佇むそれらの一つ一つが、例えばその地域の御大師様やお遍路に関わる歴史のようなことであったり、例えば遥か昔に命がけで巡礼の旅をされていた多くのお遍路さんの様子や息づかいのようなものを、現在この道を歩く僕達の心に訴えてくるのです。札所を巡って御利益を求めることも大切なことではありますが、こういったなにげない遺物に心を向けることも大事なことだと、今回取り上げさせてもらった2つの御堂は教えてくれた気がします。阿波の国の遍路道を歩いてきただけの僕ですが、これから先の長い道のりは、更にこういった小さな遺跡に心をむけながら、遍路の世界の奥深いところに触れていきたいと思っています。