石鎚今宮道 砂利道と道しるべ















【2010年5月3日】

 登山口を出発してから、かれこれ50分は歩いた頃だったろうか。道の両側を埋め尽くしていた杉木立が途切れて視界の拡がる場所に出た。明るい春の日差しが道を照らし出した。辺りの木々や草の緑がここまでの道程で見かけたものよりも色が映えて見えて、とてもきれいだ。そして頭上に広がる晴天の空の青さの美しさ。思わず、「ああ、オレはなんて贅沢な日に山登りをしてるんだろう」と少し感動する。昨日の行程では、この燦燦とした日差しがやや負担に感じられたものだった。春にもかかわらず、まるで夏の日差しを浴びているようで、とくに車道沿いの狭い歩道を歩いているときなどはなおさらその暑さが堪えたものだった。今もその日差しを同じように浴びているはずなのに、それがまるで性質の違うもののように思えた。けっして「強い」ものではなく、「柔らかで優しい」本当の春の日差しだ。街中と山の中とでは太陽の光の感じ方がこうも変わるものかと、改めて山の自然の恩恵を有難く感じた。


 細い山道をさらに歩いていくと、いきなり眼の前に左右に伸びる広い砂利道が現れた。車2台が横に並んでもまったく問題ない程の幅の広い道である。細い山道はこの辺りで途切れ、先へ進むにはこの砂利道を歩いていくしかないようだ。なだらかな勾配がつづく砂利道を明るい日差しを受けながら山頂方向に向かって進む。右手の景色に目をやれば、石鎚山系の山並みがよく見える。どの山々の頂も今いる場所の高さに比べれば遥かに高いのが遠目にもよくわかる。「こりゃ、登山口から100mほどしか登っていないのも頷ける」と納得しながら、ぼつぼつと砂利を踏みしめながら歩いた。



石鎚今宮道 砂利道を進む石鎚今宮道 砂利道より石鎚山系の景色を望む







【 広い砂利道を進む・右手に見えた山々の景色の様子 】



 見晴らしのよい景色を眺めながら、遠くから聞こえてくる山鳥の声を聞きながら、人の気配の全くないこのだだっ広い道の真ん中を進む時間のなんと穏やかなことだったろうか。何時までもこの道を歩く時間が続けばいいのに、いっそこの道が成就社まで続いてくれればいいのにな・・・、とあらぬ妄想を抱いたりしたものだったが、実際問題としてもしもこんな緩やかな坂道が成就社まで通じていたなら、辿り着くまでに一体どれくらいの時間がかかるものやら・・・。きっと、かなりの時間を要するだろう。妄想はあくまで妄想だ。予定時間内で成就社を目指すならば、この道を離れて再び狭く険しい山道に入っていかねばならない。どこかに山道の入り口がある筈だ、その道標がどこかにある筈だと周囲を注意深く見回しながら進んでゆく。

 僕ら歩き遍路がいつも頼りにしている、あの道標は当然ながらこの石鎚山道には存在しない。あの道標とは、皆さん御存知のへんろ道保存協力会が設置している道標である。この石鎚山道は、弘法大師が足跡を残した道とはいえ、ぶっちゃけ本来の遍路コースとはあまり関係のないルートと言えるだろう。あくまで石鎚頂上社への登拝道であり、登山を楽しむ人のための登山道であって、遍路道ではないのだ。あの道標がこのルート上に存在する謂れは無いのである。そのかわりといってはなんだが、この山独自の道標はちゃんと設置されている。この山に限らず、大方どこの山にも道標は設置されているものである。ただ、僕ら歩き遍路はあまりにもへんろ道保存会の道標に慣れてしまっている傾向があって、どうも山の道標だけでは心許ない気もしてしまう。あの道標がないと、なにか不安だな・・・といった感覚。ある意味、それは「心の不便さ」を得ているといったらいいのだろうか。道標の恩恵に慣れてしまっているが故に、その恩恵の届かない範囲の土地に脚を踏み入れた時に起こる迷いや恐れといった心の硬直。便利で有難いものに対して常に感謝の気持ちをもつことは必要だが、それに慣れてしまった挙句に「それがあって当たり前」といった感覚に陥ることは極めて危険だ。あるべきものを見失ったと思った時に心の均衡を崩しパニックになってしまう。むしろ「無くて当たり前」といった認識を持ち続けることで、初めて道標という存在が暗闇を照らす灯明のように本当に有難く感じられるのではないか。そしてなによりも、平常心と柔軟な心を保つことこそが大切なことに思える。

 偉そうなことを綴っているが、これは当時の僕が自分自身に必死に言い聞かせていたことだ。平常心を失わないようにすること、それを失えば山中でどんな目に逢うかわかったものではなかったからだ。



石鎚今宮道 道しるべ








【 今宮山道の道標。赤い色彩が施されているのが嬉しい。 】



 砂利道を15分程歩いたところで、ようやく山道の入り口を見つけた。「成就」と書かれた小さな道標が山道脇に設置されている。ここから再び杉の木々の居並ぶ狭い坂道を進んでゆく。坂の勾配はまだそこそこといったところだったろうか。体力にもまだ余裕があった時期だったので、ペースアップすることもこの時点では可能だったかもしれないが、いずれ出会うであろう「難所」と対峙する時のために無理は控えた。できるかぎりスタミナを温存し、また発汗の量を抑えるためにもペースアップは厳禁だった。2本のストックでボディバランスを保ちながら(下手な姿勢で歩きつづけると却って疲労度が増すだろう)、自分の出せる7分か8分目くらいの力を両脚に込めながら進んだ。

 この山道はたいした距離はなく、しばらく進むとまたさっき歩いたような広い砂利道が行く手に現れた。あの道のつづきのようである。どうやらこの砂利道は蛇行しながら山上方面に向かっているように思えた。

 『ひょっとしたら、この道を進んだほうがいいのかもしれない・・・。』

 ふとそう思った。先程はこの砂利道が本当に山上へ続いているのかどうか疑わしかったので真剣に進むことを考えたわけではなかったのだが・・・。これは意外と使える道なのかもしれないぞと思った。時間はかかるかもしれないが、この道を選択した方が格段に疲労度を緩和できるかもしれないと考えた。ただ、僕の手持ちの地図にはこの道の記載が無かったため、果たして本当に成就社まで続いているのかどうかはわかりかねた。ここはやはり、道標の指示に素直に従って進むほうが無難であるように思えた。道に迷ってしまう危険を犯してまでも疲労度の心配を優先するのは賢明とはいえないだろう。

 山道がここで途切れていたので、ひとまずはこの砂利道を進むことにする。道沿いに道標もちゃんと設置してあることも確認できたので、不安を感じることもなく砂利道を進んだが、数分後には道標の指示に従って道を逸れ更に次の山道に入った。その後、もう一度砂利道と山道との交差地点に出くわすこととなるが、砂利道への未練は既に無く、道標の指示通り迷わず山道を進んだ。いや、正確に表現すれば、そんな気持ちの余裕が無かったと言ったらいいだろうか。じつはこの辺りから、そろそろ山道の勾配が厳しくなってきたように思う。「ついにきたか」と気持ちを引き締めながら歩きはじめたのも、道選びで迷っているような精神的な余裕が無くなり始めていたのも、だいたいこの辺りからだったように記憶している。



石鎚今宮道 山道の様子








【 山道の様子。ここらあたりから歩行が辛くなってきたように思う・・・。 】続きを読む