気ままに歩いて候。

あせらず、くさらず、歩いていきましょう。 2007年5月の連休から始めた区切り打ちの四国歩き遍路の思い出を綴った記事を中心に掲載しています。

2009年06月

冬遍路 〜足摺岬・宿毛へ〜  (21)

2008年12月31日 真念庵(その2)


真念庵遍路道入口付近
【真念庵への山道の入口付近にて】


 石段を登っていくと、程なく山道に出た。山道はしばらく続くようだ。

 道端には登り口で見かけたものと同じような丁石が、土砂にもたれかかるようにして建っている。建っているというよりも倒れているといったほうが適切だろうか。三百年以上も遍路人を見守り続けてきた丁石は、倒れながらも今なお僕達に行くべき道を示してくれている。表面の色はくすみ、彫られた文字も満足に読みとることは難しい。はたして現在、この丁石に道標としての機能があるかどうかは判断しずらい。だが、それでも、丁石は笑って「もうすぐだよ…。真念庵はすぐそこだよ…。」と懸命に話しかけてくれているように思えて仕方がなかった。
 
 (アンタは丁石としてつくられたんやもんな…。姿かたちが無くなるまで、丁石として頑張るしかないんやもんな…。)

 それが、この石たちの悲しい運命だとは思えない。この石たちには多くの人の思いが詰まっているのだ。遍路人の思い。たくさんの遍路人が、あしずりの地を懸命に歩き何時しか道に迷い途方に暮れた遍路人には、この丁石が光り輝く灯籠のように見えたのではないだろうか。行く先を照らす灯明。どれだけの数の遍路人が心を救われたことだろうか。そして、石をつくった人たちの思いも沢山詰まっていることだろう。功徳を積むためであったかもしれない。あるいは救済の念から建立を思い立たれた方も多くいただろう。そういった人達が選びに選んだ石に自らの名と主要地点への距離を彫りこんだ。
 丁石の傍にしゃがみ込み、岩肌を、そして今はもう読み辛くなった文字を顔を近づけて見ていると、石に関わった様々な人のエネルギーのようなものが僅かながらだが心の中に入ってくるような気がする。石には人の魂が宿るという話をよく耳にする。邪念などが籠もるという話が怪談でとりあげられたりもするが、この丁石にはそんな悪しき念のようなものは感じないし、存在しないだろう。進むべき道を見つけた希望の念、少しでも助けになればという慈愛の念。そんな光り輝くエネルギーが石にはいっぱい詰まっているにちがいない。

『…まだまだ頑張るよ。…時の流れに負けないよ。』

 僕には古びた丁石が、体の不自由さなど物ともせず、ただひたすらに元気で頑張っている笑顔の素敵な老人に見えた。


真念庵遍路道の丁石1真念庵遍路道の丁石2












【山道で今も旅人を見守る江戸期の丁石】




 細い山道をしばらく進むと右手の視界が広けてきた。右手は土手になっており、すぐ下を例の車道(県道46号線と交差する道)が通っているのが見える。車道のすぐ傍を平行して山道を進んでいるといった具合だ。ドライブイン水車のそばにある小高い山、その麓に真念庵があると言ってしまえばわかりやすい。

 (…なんかなー。 …近道いうんか?これ。)

 正直、距離が稼げた優越感は全く湧いてこない。ただ、こっちの道のほうが歴史は永いんだから(丁石があるところからそう判断した)歩けて幸せなんだと自分に思い聞かせながら山道を進んでいく。

 道端には、あの丁石がいくつか見かけられた。どれも脇の斜面にもたれかかったものばかりだったが、先ほど述べたエネルギーのようなものを感じると同時に、数百年も道標をやってきたんだという厳かな貫禄のようなものも匂わせてくれる。そんな偉大な石たちが真念庵へと誘ってくれているようだ。ああ、やっぱりこの道通ってよかったなと少し気持ちが踊りだした。


真念庵の遍路道を進む





『下を見下ろせば、ほんのすぐ傍に車道が通っているのが見える。車道を進んでも真念庵の入口(別の入口となる)に辿り着くことができる。「登り道」を避けたい方は車道を選んだほうがいいかもしれないが、この山道、近道とは言えないまでも風情があって良い道なので、時間に余裕のある方は是非・・・!』続きを読む

冬遍路 〜足摺岬・宿毛へ〜  (20)

2008年12月31日 真念庵(その1)

 真念庵を建立した真念法師という人物については、僕は最近まで、少なくとも区切り打ちの遍路の旅が土佐の国の行程の半ばあたりにさしかかった夏頃(2008年7月)ぐらいまでは、殆ど知識が無かったと言っていい。真念庵という場所があることは遍路用の地図や解説本を見たりして確認はしていたし、かつて訪れたことのある佛海庵(室戸市佐喜浜町・二十四番札所最御崎寺より北へ20km)のように四国路往来に難渋した遍路人のための救済所であったことも何かの資料で読んだことはあった。夏までに得ていた知識というのはその程度の漠然としたものに過ぎなかった。
 その後、ネットなどを通じて少しずつ情報を集めてはみた。まだまだ勉強不足の段階ではあるが、今回の遍路の旅に出発するまでには大まかな概要は知り得ることができたと思う。


 真念法師は江戸時代に活躍した巡礼僧だが、詳しい経歴については不明な点が多いらしい。墓所が香川県牟礼町の州崎寺(番外霊場とされている)にあるらしく、墓の記述によれば没年は元禄期ということだ。深く弘法大師に帰依されていたようで、自ら四国巡礼の旅に出ること二十数回にも及び(言うまでなく二十数回四国を周られたということである)、また遍路人の便宜を図るために指南書(ガイドブックのようなもの)を製作したり、標石を設置するなどの事業もされたようである。
 真念法師による著作・出版された指南書には「四国邊路道指南」「四国邊礼功徳記」「四国邊礼霊場記」がある。中でも「四国邊路道指南」は内容的にもまさにガイドブックと呼ぶに相応しいものとなっており遍路道に関わる詳細な情報が載せられている書物だ(といいながら僕はその書物や解説本などを読んだ経験がないので詳しいことはわからない)。「四国邊路道指南」が世間に出回ることにより、四国遍路道の情報は広く一般大衆にも知れ渡り、武士階級や僧侶以外の人達が四国遍路を盛んに行うようになる。真念法師の活躍によって四国遍路はいわゆる「メジャー化」されたようである。各地で遍路道沿いに村人たちなどの手による標石が設置されだしたのも、この時代以降ではないかということだ。「メジャー化」されたとはいえ、四国に渡った遍路人は不治の病を抱えた人たちや様々な事情で国を追われた人たち、また罪によって終生遍路を続けることになった人たちなどが殆どだったようだ。病を抱えた人たちは霊場を巡ることによる功徳によって病が治るのではないかという僅かな希望をもって残る生涯を遍路に捧げた。しかし、その願いは適う事無く、行き倒れになる人や足摺岬に身を投げる人が多くいたようだ。ただでさえ、昔の四国路は「辺土」と呼ばれたほど想像を絶する難所ばかりだった。来る日も来る日も、死ぬ思いで歩き続けた遍路人の苦しみや悲しみは如何ばかりであったか…。そんな遍路人を救済する施設が四国ではあちらこちらに創られたようだ。真念庵もそんな施設のひとつであったようだが、或いは違った役割もこの庵は担っていたようである(その事についてはまた後に…)。
 真念法師は「四国遍路の父」「四国遍路中興の祖」と名で呼ばれているということだが、大師信仰や四国遍路に関わる事業に全てを捧げた生涯を総括するには本当に相応しい贈り名に思える。現在も四国遍路というものが盛んに行われている背景には、真念法師が江戸期からしっかりと土台づくりをしていたという事実があったことも忘れてはならないだろう
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冬遍路 〜足摺岬・宿毛へ〜  (19)

2008年12月31日 市野瀬・ドライブイン水車にて


12 のコピー


 午前11時13分、ドライブイン水車に到着した。土佐清水市と四万十市の境界線に程近いこの休憩所に僕は再び戻ってきたのだ。

 「水車」と白い大きな文字の書かれた食堂の赤い屋根が妙に懐かしい。あれからまだ2日しか経っていないにもかかわらず…。ここで食べた丼飯の味が未だに鮮明に記憶に残っている。一昨日歩いた大岐への道程は、このドライブインを過ぎてからが正念場だった。そして、今日これから歩いていく道程も、この場所からが正念場となるだろう。

 (せっかくやから、なんか食べていくか…。)

 正念場を前にしての腹ごしらえといきたいところだが、食事を摂るにはまだ少し時間が早い。空腹感も全く無かったので、とりあえず休憩だけでもさせてもらおうと、食堂横のベンチへ向かった。

 ベンチには若いお遍路さんが二人、身支度を整えながら、丁度出発しようとしているところだった。何となく見覚えのあるこの二人…。 いや…。 あれは、紛れもなく…!  

 (おおっ、あれはKさんとNさんやないかっ!!)

 思わず声をかけると、「おお…」と二人共手を挙げて笑って出迎えてくれた。なんとかこの二人に追いつけたようだ。



 「Nさん、やっぱりこちらの道を選びましたか…。」

 少しニンマリした表情でNさんに訊ねると、

 「いや、Kさんと歩いているうちに、なんだか自分も真念庵を見ておきたくなったんでね。…というか、今朝はどうも足の怪我が少し痛むんですよ。あまり調子がよくないみたいでね…。たぶん今日は独りで歩くのはきついんじゃないかなって思うんですよ。だれかと一緒に歩いたほうが、精神的にも楽だと思うんでね。そんなわけで今日一日、Kさんについていこうかなって決めたわけです。」

 大丈夫かと少し心配になったが、隣で黙って頷いているKさんの顔を見ていると、不思議と安心感が湧いてくるのだった。

 (この人が一緒やったら、大丈夫やろう。なんとかなるわ…。)

 安定感抜群(僕の勝手に抱いているイメージだが)のKさんがいれば、Nさんも心強いだろう。

 「ところで六根清浄さん(仮名)、やっぱり真念遍路道は諦めきれませんか?」

 唐突なNさんの問いに一瞬戸惑った。「諦めきれませんか?」という言葉の中に「止めたほうがええぞ、考え直せよ」といったニュアンスが多分に含まれている気がしたのだ。他人の考えや方針を尊重し、決して自分の考えを押し付けないタイプのNさんにしては珍しいセリフだった。

 「今のところは、まだ諦めきれませんねえ…。どんな道なのか、どうしても見ておきたいんですよねえ…。」

 「うーん…。でも、真念遍路道っていうのは山道じゃないですか。この時間からだと、山道の途中で日が暮れちゃうんじゃないですかね…。さすがにそれはマズいと思いますけどね。」

 Nさんの言うことはもっともだ。その可能性はかなり高い。ここから真念遍路道の入口にあたる三原村上長谷の集落へはおよそ10kmの距離があり、到着するのにおよそ3時間はかかるだろう。真念庵を参拝する時間や時折休憩をとりながら進むことを考えれば、山道に入るのは午後3時を回ったくらいになるだろうか。日没を午後5時くらいと想定すると、山中でどっぷり日が暮れてしまう確率は非常に高い。

 「たしかにマズいでしょうね…。遭難したらどないしましょか…。ハハハ…。」

 「いや、冗談もいいですけど、なるべくなら行かないほうがいいですよ。他のことならともかくね、真冬の時期に山道を夕方になって歩くっていうのは、やっぱりやめておいたほうがいいですよ。」

 Nさんは本気で僕のことを心配してくれているらしい。

 「状況を見ながら判断することにしますよ。上長谷(の分岐点・真念遍路道の入口)に着くのが、かなり遅くなったら、諦めてそのまま県道を進みますけども。午後3時までになんとか着けたなら…・、行っちゃうでしょうね。たぶん。」

 「というか…。絶対行くつもりでしょ?!なにがあっても。なんか顔に出てますよ、『オレは絶対行くぞ』って…。」

 ウッ…・。さすがはNさん…。鋭い観察力だ。
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六根清浄

1969年4月20日生まれ

京都市在住
2007年5月から始めた区切り打ち四国歩き遍路も4年目をもちましてようやく結願いたしました。支えてくださった皆様に感謝です。2巡目の構想も視野に入れながら、さらに日本の各地を「歩き旅」で訪れてみたいと考えています。自称『歩き中毒患者』(笑)


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