気ままに歩いて候。

あせらず、くさらず、歩いていきましょう。 2007年5月の連休から始めた区切り打ちの四国歩き遍路の思い出を綴った記事を中心に掲載しています。

2007年12月

初日を終える

 誰もいなかった無人駅に、一人、また一人と電車の利用客がやってきます。あれほど静かだった小さな駅の構内が、たちまち賑やかな空間に様変わり・・・。地元の御歳寄りや若い方など、様々な年代の人たちが、いい空気で会話を楽しんでいる。普段の生活の中では接することのない少ない人同士が、この駅で久しぶりに顔を会わせて、お互いの近況などを笑顔で聞きあったりして本当に和やかな雰囲気でした。この場所は駅であると同時に、この地区の寄り合い所のような役目もはたしているようです。こういうところが、地方の小さな駅のいいところなんですよね。

 ほどなくして電車が到着しました。再び重い荷物を背負うと、地元の方たちの後について、車内へ。座席は空いていましたが、一駅先で降りることを考えると、座るのもなんなので立っていました。
 
 ゆっくりと動き出した電車の振動が、疲れた体にここちよく伝わります。

 

「ほんとに、よく歩いたなあ・・・。」

 今日一日、久しぶりによく歩いた。こんなに長い距離を歩いたのは何年ぶりだろうか。
  
 そして色々なことを感じ、教えられ、考えた。こういった経験は今までの人生の中では味わったことのないものだ。こんなに心が軽く清らかになることは。本当になんなんだろうか、今日の体験は・・・。

 
 
そんなことを考えながら、改めて「歩き遍路」というものの素晴らしさを実感していました。ともかく、無事に一日を終えることができた。そして、あと一日、この素晴らしい「歩き遍路」を体験できるのです。また御大師様と一緒に遍路道を歩くことができるのです。「明日」という時間にこれほど希望を抱いたことがあったでしょうか。電車の揺れに身をまかせながら、短い時間でしたが、満ち足りた気分に浸っていました。


 その満ち足りた時間も、麻植塚駅についた瞬間に、脆くも崩れ去ったのでした。
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遠き道のり - 5

 どこをどう歩いたのか・・・。

 前回もお話したとおり、吉野川を渡ってから牛島駅に向かう道程を歩いた記憶は、懸命に歩いたという思い出しかなく、どういうルートを歩いたのか、どういう景色だったかということについては、ほとんど思い出せないのです。頭が朦朧としていたんでしょうね。
 ほんとうにもう限界でした。何度も座って休もうかと考えましたが、歩みを止めてしまうのが恐かった。休んでしまうと動けなくなるのではないかという恐さがあったのです。中途半端な場所で動けなくなってしまうよりは、なんとか頑張って駅まで歩こうと我慢しながら先を急ぎました。

 この牛島駅までの道は、僕にとっては修行の道でした。遍路道とはかけ離れた地域の、なんの変哲もない「現代の車道」です。世間の人からみれば、ただのありふれた道でしょう。ありふれた道だから、景色の記憶は残ってないのかもしれませんね・・・。ですが、懸命に歩いた思い出ははっきり残っている訳です。僕にとってみれば、この道程も「遍路道」でした。陽はとっっぷりと暮れ、空腹感と両踵のマメの痛みと戦いながら歩いた。そして思わずつぶやいていたのです、「南無大師遍照金剛」と。修行と祈りの世界を、遍路の世界をまだ歩いていたということですね。厳しい体験となりましたが、初日にこういうつらい思いを体験できたのは今になって思えば実は幸運だったのかもしれません。この体験が今後の歩き遍路に活かされることになりましたから。「何事も無茶はいかんぞ」ということですね。焦って速いペースで歩いてみたり、思いつきで「これくらいの距離なら歩ききってやるぞ」と気楽に考えてみたり・・・、慎重さを忘れると必ず重いツケを払わされるということですね。そんな教訓を頂いたと考えれば、ありがたい体験をさせていただいたということでしょう。


 そうして、ようやく牛島駅までたどり着くことができました。

 駅にたどり着いた時の記憶は今でも鮮明に残っています。疲れが吹き飛んだんでしょうね、よほどうれしかったのでしょう、だからはっきりと思い出すことができる。

 フラフラになりながら、ひたすら南へ南へと歩いて来て、

 「そろそろ駅のある場所なんじゃないか・・・」

 そう思って、あたりを眺めていると・・・。踏み切りが見えた。

 「踏み切りがあるということは・・・、線路がある?!」

 当たり前のことなのですが、当然そこに線路があったわけで。踏み切りのそばまで歩いて行って、左の方角を見ますと、線路沿いに建築物が・・・。

 ようやくたどり着いたのです。なんとか歩ききることができたのでした。

 疲れを忘れて、足早に駅まで歩きました。小さな駅でした。無人の駅でした。そんなことはどうだってよかったのです。そこには体を休めるベンチがある。ホテルのある場所まで自分を運んでくれる電車がやってきてくれる。それだけで充分でした。
 ベンチに荷物を下ろした時の気持ちは忘れることができません。しばらくは妙に体全体の感覚が無くなっていましたが、ベンチに座りながら時間が経つにつれて徐々にひとつひとつの体の細胞が蘇っていくように感じました。それでも当分動きたくはありませんでしたが・・・。
 電車が来るまでには、しばらく時間がありましたから、それまでは本当に死んだようにぐったり座っていました。思わず眠ってしまいそうになるぐらいに。いや、へたをすれば眠り込んでしまったかもしれませんね。幸い、睡魔に襲われる直前に電車が到着してくれましたから、事なきをえましたが。

遠き道のり - 4

 吉野川を渡ってからの道程は、本当に心身共に厳しいものがありました。できれば、その様子を詳しくお話できればよかったのですが、当時つけていた日記にその時の記述がほとんどないのです。
 
 半年以上の時間が経過しているにもかかわらず、5月の遍路の様子をブログに掲載できるのも、当時つけていた日記のおかげなのです。日記を読むと、あの頃に体験した記憶が、はっきりとよみがえってくる。ここの札所ではこうだった、この道ではこんなものがあったという記述があると、「そういえば、それだけじゃなくて、こんなこともあったし、あんなこともあったな・・・」というかんじで、頭の中で当時見た景色や経験したこと、感じたことなどが、どんどん思い出されてくるのです。記憶の引き出しを開ける鍵のようなものですね。こまめに日記を書いていてよかったと思います。

 ですが、この初日の最後のほうの道程の記述は「しんどかった」「あまり記憶がない」というものしかないんですね。日記に頼らず、今思い出そうとしても、確かに「あまり記憶がない」わけです。もうフラフラの状態で歩いてましたから。頭もボーッとしながら、脚を前に動かしていただけでした。なんとか思い出せることといえば・・・、脚にほとんど感覚が無くなっていたことです、両足の踵に感じる激しい痛みを除けば。脚を踏み出すたびにズキズキする。マメができていたんですね、両足共に大きなヤツが。大日寺から地蔵寺にかけて、それから安楽寺までのラストスパートで、かなり飛ばしながら歩いた。その時に両踵は相当ダメージをうけていたんでしょう。調子にのって慣れないことをしたばっかりに・・・。そのツケがまわってきたということですね。マメをつぶさないように、ゆっくりと歩くように心がけていたと思います。
 
 そして、心のなかで「駅はまだか!!」と叫んでいました。

 安楽寺をあとにした時は、「なんとか麻植塚まで歩いてみるか。」と安易に考えていましたが、どうやら途方も無い発想をしていたことに気づかされたわけです。夕方まで遍路道を歩いた疲れの溜まった状態では、とてもじゃありませんが、そんなところまでは歩けない。もはや満身創痍(ちょっと大げさか?)の今の状態では1KMの距離ですら歩けない。というか、歩きたくない!!「歩き病」にかかった者の無残な姿をさらしていました。もう充分に自分の脚は歩くことに満足しました、もう限界です・・・、そう思いながら交通手段で移動する方法を考えてましたね。タクシーも全く見かけませんでしたし、この地域のバスのこともいまいちよくわからないので、もうシンプルに「とにかく電車だ!JRだ!徳島線だ!」と念じながら、南へ歩きました。徳島線が通っているのは、南の方角でしたから。一番近いと思われる駅が牛島駅だったのです。麻植塚のひとつ隣の駅ですが、わずか一区間ですら、もう電車で移動したかったのでした。

 牛島駅を目標にして最後の力をふりしぼって歩きました・・・。とはいっても、駅までは、まだまだ距離があったのですが。


 なんとか当時の心境だけは思い出すことができましたね(笑)。歩いた場所の様子などは思い出せませんが。しんどい記憶というものは、心の奥底にこびりついているものですね。あと少しですが、しんどかった話はつづきます・・・・。



六根清浄

1969年4月20日生まれ

京都市在住
2007年5月から始めた区切り打ち四国歩き遍路も4年目をもちましてようやく結願いたしました。支えてくださった皆様に感謝です。2巡目の構想も視野に入れながら、さらに日本の各地を「歩き旅」で訪れてみたいと考えています。自称『歩き中毒患者』(笑)


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