石鎚山今宮山道入口の鳥居














【 今宮山道入口に立つ石柱(鳥居) 】



 前回より8ヶ月もあいだが空いてしまいましたが、「春の伊予路をゆく(霊峰石鎚山へ)」第6回がようやく完成しました。あまりのブランクの長さに『もう更新無いんちゃう?』と思われた方も多いと思います。本当に申し訳ありませんでした!

 石鎚登山の道、殊に河口から成就社に至る行程は、自分にとってはあまりに厳しく過酷なものでした。それを言葉で表すことは正直とても困難な作業に思えたのです。2、3度文章に起こしてみたこともありましたが、あの行程の思い出をなかなかうまく表現できず、起こしては消去するということを繰り返した挙句、最後は筆が止まってしまいました。「どうせやるなら、あの時に感じたもの全てを正確に表現してみたい」と力み過ぎてしまったのがいけなかったのでしょう。結果、記事をつくることから遠ざかってしまい、気がつけば石鎚登山をした頃からはや1年もの月日が経ってしまいました。徐々に薄れゆく記憶を元にあの時の思い出を綴ることは更に困難な状況になってしまったわけですが、これ以上先延ばしにすることは自身にとっても良くないことのようにも思われ、覚悟を決めて(大げさかもしれませんが・・・)記事をつくってみました。当時の感情表現・詳細な行程の描写は、完璧な形では再現できないことを前提にできるかぎり頑張ってみました。記憶力の問題もあって、登山道の描写に間違いの記述もあるかもしれませんが、どうがご容赦下さい。この回以降も気力を維持しながら石鎚登山の道中、その後の遍路の経過を綴っていく予定です(予定ですけど・・・)。今後、石鎚登山をされる方々の参考資料になる代物には成り得ないものかもしれませんが・・・。



【2010年5月3日】 

 石鎚山という山について、ここで改めて振り返ってみたい。四国山脈の西方に位置し、その標高は1982m。西日本の中では最高峰と言われる。ちなみに四国山地東方の剣山(徳島県)は標高が1955mで、石鎚山に次いで西日本第2位の高さを誇る名峰である。両山共に信仰の山としての歴史を持つが、石鎚山が開山されたのは今からおよそ1300年前の事、かの修験道の祖である役の行者による開山と伝えられることから、霊山としての歴史の長さはこちらに軍配が挙がるようだ。また石鎚山は富士山や立山・白山などと共に、日本七霊山のひとつとしても数えられている。現在では登山ブームの影響もあって多くの登山者の訪れる、いわば観光の山としての印象が強いが、山道の険しさもさることながら、夜明峠から弥山に至る行程には「鎖場」も残っていることから、やはり修行場としての面影は色濃く残っていると言えるだろう。
 
 登山経験の乏しい自分が何故にこのような西日本の最高峰であり日本を代表する霊山に脚を踏み入れたいという気持ちを抱いたのか?何故に登山口から山頂までの行程を踏破するといった暴挙に出たのか?今にして思えば、不思議な気持ちもする。あの当時は弘法大師が歩いたといわれる「修行の道」を自分も辿ってみたいといった願望や、四国遍路最大の難所といわれる石鎚山への道に逃げることなく挑戦してみたいというある種の意地のような想いがあった。そういった心のエネルギーが僕をあの山へと向かわせ、ついには山頂まで誘ってくれたことも事実だろう。しかし、そもそも何故あのような願望や意地を抱いたのかということを今になって考えてみると、生来の自分の気性が影響したことももちろん否定はしないが、むしろ見えない外部からの力がそうさせたと考えたほうが自然な気がする。御山に呼ばれていたということではないだろうか。お遍路が「お四国さま」に呼ばれて巡礼をするように、登山者もまた御山に呼ばれて登山に赴くのではあるまいか。登山者の多くが山頂到達の成功が自力による成果だと考えておられることだろう。全くそのとおりで、登山に入る前の下準備から始まり山頂までの過酷な試練を乗り越えられる登山者の精神力・技術力は僕のような人間から見れば驚嘆の一語に尽きる。ただ、少し感じるのは(本当に山を愛する登山家の方はおそらくわかっていらっしゃることだと思うのでそういう方には読み流していただきたい)登山者の山に於いての活動は自身の身体能力・判断力を用いて為されるのはもちろんのことだが、それに加えて御山の発するエネルギー(山独特の新鮮な空気や木々から放たれる成分)を体内に取り込むことにより普段以上に身体の機能が活性化され活動能力が向上するということを考えると、これは『御山に力を貰っている』と言えなくもないのではないか。昔の日本人はそういうことをよくわかっていて、自分に力を与えてくれる御山の世界を崇拝し神格化した。御山には命がある、御山は生きているという思想。科学文明の発達した現代社会において、そういった思想はナンセンスなものとして捉えられがちだが、それでも自然が生み出す力に対して人間が抱く畏敬の念は幾時代を経ても完全には消え去ることはないように思われる。実際、山に魅せられ何度も山に脚を運ぶ現代の登山家の方達はそうした精神を受け継ぐ方達のように思える。「崇拝」「神格化」といった概念は別にしても、純粋に山の生命力を感じ自然の息吹を愛する人達ではなかろうか。自然に対して意識を開放し共有する登山家の姿、それは本来人間が持つべき姿であるのかもしれない。自然とのつながり無くしては人間は生きていけないだろうし、自然への敬愛の念を忘れてしまった時、人間は自身の姿を見失ってあらぬべき道を突き進んでしまうことだろう。

 山には命がある、そう考えれば人が或る山に惹かれその頂上を目指すという行為が、じつはその山に導かれ助けられてはじめて為し得るものなのだと言えなくはないだろうか。いや、もっと端的に言えば、人がその山を登ろうと志した時から、人はその山に選ばれているのかもしれない。呼ばれているのかもしれない。

 僕が石鎚山という山に御縁を持てたのも、登山を終えて月日を経た今にして思えば、山に呼ばれていたように感じる。「選ばれた」とまでは、とても厚かましく恐れ多い気もするのでそこまでは思わないが、なにかしらの不思議な力によってあの山に引き付けられたのだという気がしてならない。


 前置きが長くなってしまったが、そろそろ自分の体験したことを綴っていきたいと思う。


 2010年5月3日の午後2時過ぎ、前回で述べたとおり、後ろ向きな思考に捉われながらも河口の登山口より今宮山道に脚を踏み入れた。西日本を代表する霊峰の入り口にしては、あの登山口はどこかあっさりしすぎているというのか・・・。景観に少し物足りなさを感じたものだった。しかしながら、登山口というものはどこの山でもそんなに仰々しいものではないだろう。この登山口で印象に残ったものといえば、道の両脇に建てられた2本の古い石柱である。其々、「敬神」「愛國」と文字が刻まれている。「愛國」という言葉から、これらはおそらく大正か昭和初期あたりの時代に建てられたものだろうと勝手に推測したものだが、それはさておいて、このさりげない佇まいの石柱の存在感に妙に感じるものがあった。この2本の石柱はいわば登山口の門のような役割を果たしていて、ここから先は俗世間とは異なる「御神域」なのだと登山者に強く告げている。「本来ならば、身を清めてからこの先に脚を踏み入れるべし」と我々を戒めているようにも思えてくる。石柱を建てた昔の人達もそういった想いがあったのではないだろうか。

 身を清めることは残念ながらできなかったが、一応石柱の前に立ち一礼してから山道に入った。いよいよここから登山が始まるのだと思うと、少し気持ちが強ばってしまいそうだったが、力んでみたところで仕方がないので気持ちをリラックスさせながら歩くことにした。「もう山道に入ってしまったのだ、いらぬことは考えずに腹をくくらないと・・・」といったような事すら考えないようにした。硬い事ばかり考えてみてもしょうがない。まずは登山を『楽しむ』ことを考えよう、周りの景色を眺めながら自然と一体化するような気持ちで歩いていこう、そう心掛けるようにした。『楽しむ』気持ちが心を高ぶらせ、やがて無意識に脚が軽快に動いてゆくことにもなるだろう、そんなことを意識しながら進んだものだった。それにしても、「心掛ける」だの「意識する」だのと気が回るのは、まだ心身共に余裕がある証拠でもある。この数時間後に余裕のあった頃の自分の心持を嘲笑う状況に陥ろうとはまだ知る由もなかった・・・。



 杉木立の中の細い山道を2本のストックを左右に繰り出しながら軽快に歩いていく。軽快でいられる筈で、道の勾配はまだ緩やかで地面も至って歩きやすい。まだまだ序盤戦、最初のうちはこんなものだろうと安心しきってはいたものの、体から流れ出る汗の量が少し気になった。登山口からほんの僅かな距離しか歩いていないにも関わらず、ザックを背負った背中は衣類が既にぐっしょりと濡れていた。もともと汗かきな体質のせいもあるだろうが、やはりザックの重さには問題があるようだ。   

 以前にも述べたが、僕が5月の連休を使ってお遍路をする際に持参する荷物は、いつも重くなる傾向がある。重量の大半を占めるのは衣類だ。5月の時期というと春もたけなわといった季節であり、日中は暖かいのを通りこして若干汗ばむほどの気候である。ただ、夜間の気温がどうであるかを考えると少し神経質になってしまい、「ひょっとすると場所によっては寒くなることもあるんじゃないか?」「風邪を引いたら元も子もないから余分に衣類を持っていったほうが・・・」などと色々思案した結果がこの荷物の重量となるわけである。もう数回5月の遍路の旅を経験しているにもかかわらず、やることはなぜかいつも変わらないのだ。進歩のない奴だと言われれば返す言葉もない体たらくである。特に今回の旅に関しては石鎚山中腹で一泊するというスケジュールを入れているために、いつも以上に神経質になってしまい、必要外の衣類までザックに詰め込んでしまっている。これまでにない重量のザックを背中に背負いながら、未知の難関である石鎚登山道に挑もうというのである。無謀はなはだしく、無策この上ないといった案配となった。しかし、それでも進むしかない。すべては自らの気の迷いが招いた結果だ。そのツケを払う時がいよいよ来たのである。ツケを払う覚悟はあるものの、気になるのは水分補給の事である。今の段階での汗の量を考えたとき、果たして持参している飲料水だけで水分補給は間に合うのだろうかという疑問が湧く。現在所持している飲料水はキャップの開けていない状態の500ml瓶が2本のみ。中腹の成就社まで果たしてこの量だけでもつのだろうか・・・。不安が残るが、なんとかもたせなければ非常にまずい状況に陥ることになる。水分補給の仕方を少し工夫する必要があるかな・・・、などと考えながらなるべく汗の量を抑えるために歩くペースを控えめにしながら進むことにした。
 登山口から20分ほど歩いただろうか。突然、山道の曲がり角に寂れた御堂が現れた。御堂の中には小さな石碑が祀られている。どういった御堂なのか全くわからなかったが、ふと「これがいわゆる『王子』というやつやろうか・・・?」と思った。

「王子」とは日本神道に於いて本宮といわれる場所に祀られている御神体の子供にあたる神様(御子神)が祀られた社や祠などのことを言うそうである。曖昧な説明で申し訳ないが、根本的な意味については未だ勉強不足で正確で詳しい知識は正直今の僕にはない。「王子」で連想されるのは、和歌山県の熊野古道の紀伊路・中辺路に点在する「熊野九十九王子」だろうか。石鎚山にも「三十六王子」と呼ばれる祠があるらしい。昨日、遍路道沿いで見かけた石鎚神社の本社から山頂に至る道には36もの小社が点在しているそうで、とくに河口より先の山道には岩場や険しい絶壁にそういった祠が配置されているらしく、昔からこの山で修行を積む行者の修行場になっていたということだ。現在でも石鎚信仰においては神聖な場所であるということは変わらないようで、熱心な信者さんが年に一度王子巡りをされるそうである。



今宮山道 三光坊不動尊










【 山道沿いに建つ三光坊不動尊の御堂 】



 この御堂もそういった「王子」のひとつなのではないかとこの時は思ったものだったが、結局深くは考えずにそのまま通りすぎてしまった。王子の旧跡には興味はあったものの、それよりも山道を進むことのほうが当時の僕にとっては重要だったのだ。御堂についてはまた帰宅してから調べてみればいいと思い、やりすごした形となってしまった。実際はどういう御堂だったのかを今回の旅を終えた後で調べてみたが、残念ながら「王子」ではなかったようである。『三光坊不動尊』という名の御堂らしく、その昔に三光坊という修行者(この人についての不思議な逸話が残っているそうだが、話が長くなるのでここでは省くことにしたい)が石鎚山の麓に住み様々な行を積んでいた場所だったそうだ。その死後、地元の人達の手によってこの場所に祀られたというのが、この御堂建立の謂れだそうである。「王子」ではないにしても、過去にそのような行者が修行を積んでいたという神聖な場所には違いはないようだ。ちなみにこの御堂の後ろの位置に「今宮王子」「黒川王子」の二碑が建っていたそうである。



 御堂のあった場所から山道を更に進む。人ひとりがなんとか通れる程の狭い幅の小道が続く。歩きにくいというわけでもないのだが、どうも山道が若干荒れている様子が気になった。現在ではロープウェイが開通していることもあってか、成就社までの山道を歩いて登る人は少ないようである。そのため、山道の手入れもあまり行き届かないのが現状ではないだろうかとこの時は思ったものだった。実際のところ、荒れていると思われた箇所はこの最初のエリアだけだったように記憶している。これより先は手入れも行き届いている様子だったし、危なげな道は無かった。それはよかったのだが、ただ・・・。いや、それはまだ先の話としておきたい。



石鎚山今宮山道序盤の景色










【 写真は最も荒れていると思われた場所を撮ったもの。序盤エリアの道が全てこんな調子だったわけではない。】


 周囲に人の姿もなく、深い木々に覆われた細い山道をひとりで歩くという状況はこれまで幾度も経験してはいるものの、それでもやはり不安を感じるものである。風の音や木の葉のざわめき、野鳥のさえずりといったものしか耳に届かない。そんな中に自分の身を置く時が幸せな時間だなどと前に綴ったことがあったが、時折変わった音などを聞きつけた時にはやはり動揺してしまうものである。アブの飛ぶ音が遠くから聞こえてくる程度のものならまだいい。身を守る心の準備ができるからだ。最も動揺するのは、例えばほんの数メートル先で地面の草などが激しく揺れる音をたてた時。これは本当に怖い。音の主がマムシか或るいは猪のような獰猛な獣の場合だと最悪の事態となる。そんなものが数メートル先からいきなり襲ってきたとしたら身を守ることは困難だろう。山に入るという行為がそのような危険と常に背中あわせなのだということだけは忘れてはならない。この時も2、3度山道近くの草むらからそのような音が聞こえたことを今でも鮮明に覚えている。ただでさえ荒れた小道を歩くことに不安を感じていたところに、不意打ちというのか、突然の衝撃だった。音の様子から察するとやはり音の主は小動物の類だったように思える。危険な動物であったかどうかはわからない。動物側にしてみると、普段滅多に人間が通らない山道に長い棒状のようなものを2本持った白装束の変な奴がフラフラと歩いてきたものだから、さぞかしびっくりしていたのかもしれない。警戒心をもって僕を草叢から眺めていたのかもしれない。山道を含む山の世界は言うまでもなく動物やその他諸々の生き物たちのいわばホームグラウンドである。人間にとっては実は限りなくアウェーな世界だ。アウェーの地に脚を踏み入れる以上は、それなりの礼儀が必要なのである。音の鳴る物を身につけるというのもそんな礼儀のひとつである。登山愛好家の方たちは大抵そういった物を身につけておられるようだ。音を鳴らすことでこちらの位置を動物たちに知らせる必要があるのである。「ちょっとだけ、ここを通らせてもらいますよ」といった按配で・・・。それによって、動物側も安心できるのである。遍路道具には持鈴や金剛杖の帽子の部分にくくりつけられた鈴など、音の鳴るものがちゃんと揃っている。持鈴を持っているお遍路さんは稀だが、鈴のついた金剛杖を旅の友とするお遍路さんは多く見かける。さすがに長い歴史の中から生み出された旅の道具だ。自然の危険から身を守る知恵がちゃんと生きている。そして、「自然に対しての礼儀」も備えた素晴らしいアイテムとも言えるのではないだろうか。ちなみに僕の金剛杖には鈴はついていない。ましてや、音の鳴るようなものも一切身につけていなかった。完全に自然の世界をナメてたと言われても仕方がない。



 登山口を出発してから、もうかれこれ40分は歩いただろうか・・・。ここまでの道程は左程険しいといったものではなかったが、それでも結構な距離の登り坂を歩いてきたのである。汗の量もさることながら、幾分スタミナも切れてきた。「ここいらでそろそろ休憩摂ろうか」などと考えたりもしたものだが、まだまだ先の長い行程を思えば、なかなか背中の荷物を下ろす決心もつかずにそのまま粛々と歩みを続けた。うかうかしていると午後の3時を回ってしまう・・・、そういった時間に対しての脅迫観念もあった。止まりたいけど止まれない、そんな状況の中で気になったのは自分の現在位置だった。今、自分は今宮登山道のどのあたりまで進んだのだろう・・・。まだまだ先は長く未だ序盤戦に過ぎないことは充分承知しているものの、気持ちの整理をつける意味でもとりあえず此処まで歩いた成果というものが知りたい・・・。せめてどれくらいの高さの位置に自分がいるのかがわかれば・・・。大した高さの位置に達していないことは正直察しはついていた。持参した石鎚山の地図を見れば一目瞭然だが、登山口より歩行時間が1時間内のエリアは比較的標高差の少ないなだらかな行程がつづくようである。しかし実際ここまで歩いてみると、険しくはなかったものの、それほどキツくはなかったものの、決して「なだらか」といったものではなかったようにも思える。

 (意外と結構高いところまで来てるんとちゃうの・・・・??)

 わかってはいるのだが、そう考えたくもなった。しかし、それはあくまで自分の「夢想」「妄想」にすぎない。地図にはっきりと記載された現実を忘れて、そのような夢想に走ってしまったのはやはり疲れていたからだろう。だが、夢想も時には逆境に於いて大いに活力となりえることもある。自分を騙しながら歩いていこう、それも楽しかろう、そんなことを思いながら相も変わらず粛々と歩みを重ねてゆく。しかし、山神様の仕業だろうか。現実逃避行をつづける能天気な僕に対しての一槌がここで下ることとなる。


 突然、道の向こうからなにやら草を踏み分ける人の足音が聞こえてきた。「え、人?」と少しびっくりもしたが耳をすませてみると足音はこちらに向かって山道を下ってくるようだ。やがて足音の主が視界に入った。僕と同年代くらいの男性だった。軽装だが身につけておられるものは山歩きにみあったものばかりだ。随分と山慣れした人に思えた。挨拶を交わしたあと、さては成就社から道を下ってこられたのではないかと思い、この先の行程について訊ねてみたが、「いや、自分はほんとにこの辺りを歩きにきてるだけなので・・・」と申し訳なさそうに返事をされた。それから短い時間ではあったが雑談を交わしたあとで、ふと彼の口から意外な言葉が出た。

 「黒川道のほうには行かれなかったんですね??」

 は・・・?黒川道はたしか全面通行禁止になっている筈なのでは・・・?一瞬、この人は何を言ってるんだと思ったが、怪訝そうな表情を浮かべる僕を見て彼は落ち着いて話しだした。

 「登山口には通行禁止の看板がたっているみたいですけど、じっさいは道もそんなに痛んでないし、充分通行できる状態ですよ。私の知り合いなんかも釣りをしに、よく利用しているみたいですから・・・。危険はないみたいですね。」

 「そ、そうなんですか?そうとわかってたら、迷わずあっちの道を選んでたんでしょうけど・・・。今となっては、しゃーないですよね・・・。」

 まさか、この段階でそのような有力情報を得られるとはなんとも皮肉な巡り会わせである。できれば彼とはもう少し早い段階で出会いたかった・・・。ここまで進むと、もはや進路変更は不可能である。

 しかし、いくら黒川道が危険な状態では無かったにしても、通らなくてよかったと今では思う。全面通行禁止とはっきり書かれた標識がある以上、登山者はその警告に素直に従うべきなのである。それが無駄な気遣いに終わろうともだ。山を知り尽くしている地元近隣の方はともかく、なにもわからないよそ者、とくにビギナーにちかい登山者は絶対に無理をしてはいけない。少々回り道になろうとも、確実に安全な道を選択することがなにより自分の身を守る鍵となる。現在は黒川道が通行止めになっているかどうかはわからないが、これから僕と同じように河口方面からの登山を考えておられる方がいらっしゃったら、どうか無理なこと・軽率な判断はしないようくれぐれもお願いしたい。


 予想外の情報に驚き諦めながらも、気になっていたのが自分の現在位置だ。彼はこの辺りの山道に詳しそうだったので、今いるこの場所が標高にしてどれくらいの位置になるのか訊ねてみた。「うーん、ちょっとまってくださいよ」と彼はおもむろに腕時計をいじり始めた。彼の持っていた時計はおそらく登山家などが愛用している多機能性のもののようだった。方位計や気圧計・高度計が備わった山男必須のアイテムだ。

 「えーっと・・・・。今の場所だったら、だいたい・・・。標高300mってとこですかね。」

 一瞬、頭の中が真っ白になった。まだ標高300m・・・?ということは、登山口の河口とこの場所の標高差は、僅か100mということになる。40分も坂道を歩いてきて、たったの100mしか山を登っていないというのか・・・。



 彼と別れて再び歩きだした僕の足取りは軽やかなものではなくなっていた。充分わかっていた・・・、わかってはいたのだが、こうもはっきりとした形で現実を告げられると・・・。


 『そうかぁ・・・。まだ100mかぁ・・・。ハ、ハハハ・・・。』


 気持ちの整理をつけようと、はっきりした現在位置を彼に訊いた自分がバカだった・・・。完全に逆効果である。却って気力が萎えてしまったわけだ。

 繰り返しでくどいようだが、そんなに高い位置に自分がいる筈がないことはわかってはいた。だから、まだ100mの高さまでしか進んでいないということにも実のところ或る程度納得はいくのである。僕が落胆した本当の理由は別にあった。ここまでの坂道はそんなにハードなものではなかった。そんな行程に、あたかも数百メートルは登ったような夢想を抱くほどの疲れを感じてしまったことである。自分はそんなにヤワな人間だったのかとすっかり自信を喪失してしまった。荷物の重さのせいもあるだろう、前回の旅とのブランクが空いたことによるコンディション低下の問題もあるだろう。そして小松から横峰寺を経てモエ坂を下り終えるまでの道中の疲れもあったのかもしれない。それにしても、基本的にこんな体力でこの先も歩いていけるのか、山頂まで歩いていけるのだろうかと不安が増した。そして、さらに深刻な問題がある。成就社に至る行程のおよそ三分の一近くは今の段階で恐らくクリアできている筈である。残る標高差はあと1100m。これから先の三分の二の行程でこれだけの標高差を登り切らねばならないわけだ。かなりの急坂が、それも長い距離にわたっての急坂がこの先待っていると予想される。それがどれくらい険しいものなのか・・・。多分、自分が今まで体験したことのないような長く険しい難関が待ち受けているにちがいない。不安を通り越して恐怖心すら湧いてきた。「遭難・・・、下手をすれば行き倒れになるかも・・・」と本気で心配になってきた。

 まさに山神様の一槌であった。ここは天下の霊峰、そんじょそこらの山に登るようなヤワな気持ちで登ってくるとはけしからん!といった御叱りを受けている気がした。えらいところに脚を踏み入れたと改めて感じるとともに、本当に死ぬ気になって歩かないとこの山は自分を受け入れてくれないぞとネガティブな方向に向かいつつある自分の気持ちを戒めた。不安や恐れの心をもって山道を進むこと、それは山に対しての礼儀を欠く行為なのかもしれない。元気で前向きな心をもって歩いていけば、山神様も温かく自分を迎えてくれる筈だ・・・。そう考えることで初めて気持ちの整理がついてきた。現在位置を気にする必要はなかったのである。両脚にも再び力が戻ってきたようだった。


 御大師様が通ったと言われる「修行の道」。まだまだ先は長いが本当に色々なことを考えさせられる道だと思いしらされた。それでも、ここまでの過程はまだほんの小手調べに過ぎなかったことを後に知ることになる。さらに多くのことを「修行の道」は教えてくれることとなるのだ。