去るGW期間中(5/3〜5/5)に、高野山に行ってまいりました。四国遍路を無事に終えることができたことへの御礼参りが目的でしたが、それ以上に得るものの多かった旅となりました。


 今年の正月に結願・四国一周を終え、数ヶ月もの月日が経ってしまったものの、前回の旅の続きを歩くのだというつもりで臨んだ高野山行き。正直言いますと、正月の旅の期間中に徳島からすぐにでも高野山に向かいたかったのですが、残念ながらタイムオーバー、そこまでの時間の余裕がありませんでした。四国一周直後に高野山の奥の院を参拝すれば、感動もひとしおだったのに・・・と当時はどれ程無念に思ったことでしょうか。しかし、これも致し方のないことだったのでしょう。休暇時間の限られた勤め人の運命とでもいいましょうか・・・(ちょっと愚痴っぽいですね)。考えてみれば、寒さに弱い自分が極寒で知られる冬の高野山に登ったところで、落ち着いた気持ちで参拝をすることが果たしてできたかどうか?・・・多分、無理だったでしょう。ましてや感動に浸る余裕すらなかったように思えます。そうしますと、此度の暖かい春の時期に於いての高野山行きが結果的には自分にとってはよかったように感じられます。御山の美しい自然にも触れることができましたし、落ち着いた気持ちで御山での日々を過ごすことができました。あるいはこれもすべて、お大師様のお導きであったのかもしれません。ただ、前回の旅との時間がかなり空いてしまったために、「お遍路最後の旅」とするつもりだったのが、なにやら「お遍路番外編の旅」になってしまったような気もしないではありませんでした。四国遍路の旅と高野山への旅は『別物』として区切られてしまったような感じといいますか。まあ、贅沢言っても仕方ないのですが・・・(笑)。


 思えば、正月の遍路の旅を終えてからどれ程高野山に向かう日を夢見たことでしょうか。しかし、この5月に至る期間中には国内では未曾有の大災害が起き、また個人的なことを言いますと体調不良が続き滅多に行かない医者にも通ったりする日々が続いたりで、どうも気持ちの落ち込む傾向にありました。旅への意識も次第に薄れてゆき、「こんな大変な時期なのに旅をする場合でもないだろう」とすら思うようにもなっていました(多分、多くの日本の方がそう思っていたにちがいありません)。ですが、物事は後ろ向きに考えたところで決してよい方向に向かう筈はありません。前向きさを徐々に取り戻しながら再び旅への(それ以外の諸事についてもですが)意欲を取り戻し、再び高野山行きへの想いを振り起こすことができたのでした。



 旅の過程を簡単に振り返ってみたいと思います。


 まずは高野山までの行程ですが、御山入りはあくまで「徒歩」でいこうと決めていました。九度山町の慈尊院から高野山大門までつづく『町石道』は昔から大阪方面からの参拝者に利用されていた街道でした。その距離およそ23km。大阪方面よりつづくもうひとつの街道、参拝者がより多く利用したといわれる『高野街道』(九度山町学文路より高野山女人堂に至る)のほうが距離的には短いようでしたが、参拝道としての色合いが強いとされる『町石道』にどうしても惹かれるものがあり、この道を歩いていこうと計画を立てていました。5月3日の早朝に大阪に到着後に地下鉄に乗り継ぎ難波へ。難波から南海高野線に乗り九度山へ着いたのが午前8時半頃でした。九度山といえば、まず思い浮かべるのは真田庵。関が原の戦いで西軍に与し、信州上田城で徳川軍にさんざん煮え湯を飲ませた真田父子(昌幸・幸村)が後に蟄居生活をおくっていた場所です。個人的には非常に(いや、ほんまに!)興味もあり是非とも立ち寄りたかった場所ではあったのですが、先の行程を考えて今回は無念のスルー。そのまま慈尊院に向かい、本堂と大師堂を参拝後、納経所で道筋をお聞きしたのち、いよいよ『町石道』の山道に脚を踏み入れたのでした。(ちなみに御存知の方も多いと思いますが、慈尊院は御大師様のお母さんが住んでおられた場所です。御大師様は月に九度、御山を下り町石道を歩いてお母さんに会いに来られていたとか。それが「九度山」の地名の由来だそうです。)

 町石道の出発点から高野山の根本大塔に至る道沿いには180基もの卒塔婆の形をした町石が建っていて昔から参拝者の道標の役割を担ってきたようです。現在もそれは変わらず、自分もその町石を眺めながらの長い徒歩行をつづけることとなりました。ひたすら山道を歩き、途中、天野の里といわれる山里を経由しながら、更に急ぎ脚にて山道を進み笠木峠を越え矢立という地に到着したのが午後3時を大きく回っていたでしょうか。そこから大門に至る山道は登り坂のつづく険しい道でした。途中、袈裟掛石や押上石などの大師伝説にまつわる遺跡を眺めたりしながらようよう大門に到達したのが午後5時半頃。慈尊院より歩き始めてから休憩時間などを省くと大方7時間の道のりでした。

 高野山の町に入ると、そのまままっすぐに5日まで御厄介になる宿坊へと向かいました。成福院というその御寺は、大随求明王という仏様を御本尊とする珍しい御寺で、この仏様を御本尊とされている寺院は日本でも3箇所しかないというお話を後にお聞きしました。遅い到着にも関わらず、御寺の若い僧侶の方が温かく迎えてくださいました。これより2泊にわたって、宿坊体験(精進料理や早朝のお勤め・写経など)をさせていただいたのですが、旅館や民宿とはまた違った新鮮な宿泊体験を高野山でできたことは大変よい思い出になりました。
 4日は奥之院への参拝や町の観光などでのんびりとした穏やかな時間を過ごすことができました。しかしさすがにGWということもあってか人の賑わいも半端なものではなく、とくに弘法大師御廟へとつづく奥之院参道はさながら夏祭か初詣の神社の参道のような人だかり、御廟にいたっては経文を唱える余裕はかろうじてあったものの、お賽銭を投げ入れる人などが多くいたりして気を落ち着けるゆとりは残念ながらありませんでした。お遍路最後の訪問地である聖地奥之院をできれば静かな気分でじっくりと味わってみたかったのですが・・・。しかし、こういった賑わい・雑踏で彩られた祈りの世界も大師信仰のひとつの風景ではあります。思えば地元の東寺さん(教王護国寺)で幾度こういった風景を見てきたことでしょうか。弘法市やがらくた市などは東寺さんの風物詩であり、沢山の人たちが「お大師さん」を慕って参拝に訪れるのです。昔から多くの民衆に慕われ、支えられながら、今も民衆と共に行き続けているのが大師信仰なのでしょう。そう発想を切変えて改めて自分の周囲を見渡せば、なにやらそこから御大師様の声が聞こえてくるような気もしました。
 
 真言宗の根本道場と位置づけられる高野山。しかし、その町の中にはお坊さんだけではなく様々な人たちが根付き生活されている。東寺さんを見ても思うのですが、御大師様が築かれた世界というものには必ず民衆の入りこめる空間が用意されている。「民衆と共に」。私見ではありますが、それが御大師様の目指された衆生済度の道だったのではないかと思えてなりません。今回の旅でそれを改めて教えられた気がしました。

 
 最終日の5日、お世話になった宿坊をチェックアウトする際に、若いお坊さんから「せっかく高野山にいらっしゃったのだから結縁灌頂を受けられては?」と熱心に勧められました。結縁灌頂とは仏様と御縁をもつ儀式のことで、高野山では5月と10月の年に2度、大きな行事として灌頂会が行われています。一お遍路としては恥ずかしいかぎりですが、結縁灌頂についての知識が自分の中では曖昧で(御大師様が中国に留学中に長安の青竜寺で師匠の恵果和尚から密教の法統を受け継ぐ際に受けられた儀式ということは知っていたのですが、それ以上の知識はありませんでした)、またこの時期にそのような大事な行事が行われているということも皆目知らなかったものですから少々戸惑いはありました。帰りも徒歩での下山を考えていましたから、時間を計算すればそんな余裕も無いのではないかとも思えました。しかし、「5月の灌頂会は今日が最終日なので是非に」とのお坊さんの強い言葉に、『ああ、これもひょっとしたらお導きなのかもしれない』という気持ちがなぜかふと湧いてきたのでした。時間も1時間程度で済む筈だということでしたので、それならここはひとつお導きに従うことにしようと心を決め、灌頂会が行われる壇上伽藍へと脚を向けたのでした。

 根本大塔にて受付後、30分程の待ち時間を経て、壇上伽藍での儀式に参加。荘厳な雰囲気の中で執り行われた儀式に身をおきながら、御真言を唱えながら、4年前に四国遍路を始めた時からこの高野山に至るまでの旅の思い出が何度も頭をかすめました。「自分の遍路の旅の行き着く先はここだったのか」といった想いに駆られる度に、「やはり参加してよかった」とあの宿坊のお坊さんの助言に改めて感謝しました。いや、本当にこれもお導きだったのでしょう。5月に高野山を訪れることになったことも今にして思えば不思議な気もします。予め灌頂会が行われることを知っていたのならともかく、そんな知識も全くなかった自分が(ほんとにお恥ずかしい)幸運にも春の灌頂会が行われている最中にこの地を訪れたのです。ちょっとできすぎた偶然に驚きも感じました。もしも、正月の遍路の旅の期間中にかなり無理をしてでも高野山行きを決行していたなら灌頂会との御縁も無かったことでしょう。結果的には正月から数ヶ月たっての高野山行きが自分にとってはよいことであったと言えるでしょう。四国の旅路で何度もお導きを与えてくださった御大師様の、これが最後のお導きだったのかもしれません。(高野山の灌頂会は一般的には全国的にも有名で、GWには結縁灌頂を受けることを目的に訪れる観光客の方は非常に多いようです。知らぬは我一人なり、お遍路としてまだまだ修行が足りませんね。恥ずかしいかぎりです。)
 高野山の地で仏様と御縁を結ぶ、このことがこれからの自分の人生にとってどういう要素となっていくのか?今はまだわかりませんが、自分と弘法大師との御縁がいっそう強くなったことは揺るぎない事実で、本当に嬉しく思いますし、これから生きていくうえでの大きな心の拠り所となっていくことでしょう。

 壇上伽藍を後にし、再び高野山の町へ。金剛峰寺への参拝、お土産を求めて商店をさまよったり、また個人的に少し御縁のある御寺に立ち寄ったりしながら、これで最後となる高野山の町を満喫したのでした。


 さて、いよいよ帰途につくわけですが、下山ルートに選んだ『高野街道』について少し述べておきます。この街道は前にもふれましたが、『町石道』と並んで大阪方面よりの参拝者が昔から利用していた歴史の古い街道です。距離的にも『町石道』と比較するとかなり短い(その分、急坂が多いのですが)ため、利用者は多かったとか。庶民向けの最もポピュラーな街道だったということです。また有名な刈萱道心と石童丸の話の中にもこの街道は登場します。刈萱親子の話はじつは子供の頃に母親からよく聞かされていたこともあって、自分にとってはとても馴染み深いお話なのです。帰りのルートに『高野街道』を選んだ理由もそこにありました。御大師様の歩いた『町石道』はもう充分に堪能することができましたから、「では帰りは石童丸の足跡をたどってみようか」と『高野街道』に挑戦することにしたのでした。

 町の中心部よりはなれ、しばらく歩いた先に見えてきたのが高野七口のひとつ「不動坂口」。口の外に建っているのが女人堂です。高野山は明治初頭の時代までは女人禁制であったため、昔の女性参拝者はこれより先に入ることは叶わず、この女人堂の参拝をもって高野参拝の代わりとしたそうです。ここから、ケーブルカーの駅のある「極楽橋」までは不動坂と呼ばれる急坂がつづきます。現在では道も舗装されていて非常に歩きやすくはなっているのですが、その勾配の激しさは昔のままのようです。ケーブルカーの無かった時代には極楽橋の駅から徒歩で多くの参拝者がこの道を歩いたそうです。全長2.5km、およそ30分程の道程でしたが、下る分にはさほどの苦労もなく、右手に見える山々の景色を楽しみながらの快適な道中でした。立派な朱塗りの橋(これがじつは「極楽橋」なのです)が見えてくる場所が不動坂の終点。そこから南海高野線の極楽橋駅が歩いてすぐの場所にありましたが、そちらへは進まずに更に北へと向かいました。目標はあくまで九度山町の学文路でした。学文路には刈萱堂として知られる西光寺という御寺がありますが、高野山にあった刈萱堂とどういうつながりがあるのかを是非とも調べたかったのです。しかしながら学文路までの道程はまだ相当長く、御寺が閉まるまでに辿り着けるのかどうかも定かではありませんでした。それならいっそ電車に乗って・・・とも考えましたが、『高野街道』を制覇したいという欲もありましたから、ともかくも歩いていくことにしたのでした。

 その後、1時間程山道を歩きましたが、別れ道も多く『高野街道』に関連した道標もありませんでしたから何度も道を間違えました。致命的だったのが、詳細な地図をもっていなかったことです。とある出版社が発行している高野山のガイドブックに載せられた地図のみを見て進んだわけですが、どうも詳細さに欠けていて細かい道筋を判断するのには少し役不足のようでした。事前にもっと『高野街道』の道程について調べておけばよかったと悔やまれたものでしたが、それもあとのまつりです。尚も歩きつづけ、南海電鉄「紀伊神谷」駅のそばを通過したあたりでまた道を間違えて進んでしまうのですが、「もうやめておいたほうがいいかもしれない」とようやく諦めがついたのがその時だったでしょうか。これ以上、闇雲に歩いてみたところではたして学文路の方角に進めるかどうかも自信がもてなくなっていましたし、仮にうまく進めたとしても到着は相当遅い時間になってしまったことでしょう。結局、一度通り過ぎた「紀伊神谷」駅まで引き返し、そこで今回の旅を打ち止めることにしたのでした。

 駅の待合室で白衣と金剛杖をしまい、この場所を以って4年間にも渡るお遍路としての旅が終わったのだという感慨に耽りながらも、どこか釈然としない想いが心の中にくすぶっていました。『高野街道』を制覇できなかったという少し中途半端なこの状況を遍路の旅の終わりとしてよいのかという疑問の念。そして、それ以上に強く感じたのは「これは終わりなのか?・・・いや、始まりではないのか?」という不思議な感覚でした。何年か先に再びお遍路として四国に渡り、2巡目を歩くことも視野には入れていました。だからお遍路としての旅は近い将来まだつづきがあるのでしょう。ただ、ここで「始まり」と感じたのはお遍路とは別の、全く新しいなにかが始まる予感でした。この高野山の旅はお遍路の旅の終わりにとどまらず、次の新しい世界への始まりの旅だったように感じたのです。それがなんであるのかは今はここでは触れないことにします。はっきりとした形としてそれが現れたときに、改めてこの場でお知らせしたほうが今はよいように思うのです。


 以上で今回の旅のお知らせを終えたいと思います。例によって本当にマイペースで更新を続けているものですから、遠い未来のことになるとは思いますが、もう少し詳しく旅の経過を記事にすることができればと考えております。今回はだいぶ端折って旅の経過を述べたわけですが、じつは他にも色々面白いエピソードがありました。そんなことも含めて詳細な旅の体験談をいつの日がまとめていきたいと思っています。いつの日か・・・(苦笑)。