モエ坂の山道1














『モエ坂の山道』


【2010年5月3日】

 星ガ森を出発したのが午後12時20分くらいだった。モエ坂を下り終えるのに1時間ぐらいはかかるだろうと大方の目星をつけてはいたが、ここは敢えて時間のことは気にせず、足元に神経を集中しながら慎重に(それでいて敏捷に)坂道を歩くようにした。やはり予想したとおりの急勾配な坂道だったが、枯葉や枯枝がこんもりと道中に積もっていてクッションの役割をしてくれるためか、とても歩きやすい。下り坂特有の脚(特に踵や膝など)にかかる衝撃が幾分和らいでくれるばかりでなく、微妙な弾力もあって、思ったよりもスイスイと脚が動く。これなら筋肉痛を起こす心配もないかもしれない。「脚に優しい道」といったらいいのだろうか。軽やかに脚が動くと気分も高揚してくる。高揚した挙句、「これなら少しくらいはペースを上げてもいいんじゃないか?」とつい思ってしまうものだが、それはとんだ間違いである。地面はたしかに柔らかいが、なんせ急勾配の下り道だ。甘くみてはいけない。ペースを上げることで、膝の負担は大きくなってしまう。重力に逆らって坂の地面を踏ん張る膝の筋肉の疲労度は、スピードを上げることで大幅に増すことだろう。確実に筋肉痛を起こしてしまうに違いない。そればかりではなく、道には枯葉や枯枝に混じって石コロがあちらこちらに散らばっていて、急ぎ油断して踏みつけたりすると転倒する危険もある。やはり注意が必要だ。適度な緊張感をもちながら慎重に進むことが最善といえるだろう。慌てず、ゆっくりと、ストックを使って体のバランスに気を配りながら坂道を下っていく。

 モエ坂に入ってから10分程経っただろうか。突然行く手に御堂らしき建物が見えてきた。近寄って見てみると、どうやら薬師堂のようである。「こんな人の気配もない山道に、どうしてまたこんなものが・・・。」と思ってしばらく眺めていると、どこからか人の話し声が聞こえてきた。話し声の主たちはこちらに近づいてくるようだ。やがて、2人の熟年男性が薬師堂の陰からひょっこりと現れた。山道とは全くかけ離れた方向から急に出てこられたものだから少し驚いたが、どうやら地元の方のようで、この辺りの地理にも詳しいのだろう。山道以外の小道もよく知っておられるにちがいない。2人とも軽量のザックを背負い、手にはビニール袋を下げておられる。「さー、この辺で飯(めし)にしようか!」と声を掛け合いながらビニール袋の中から弁当を取り出し、薬師堂の縁側に座られた。傍に立っていた僕にもすぐに気付かれて声をかけてくださった。そこで暫しの間このお二人と一緒に時間を過ごしたわけだが・・・、今にして思えば、このお二人との出会いはとても奇妙だったというか不思議な出会いだったように感じる。それは、お二人がどういう方達であったのかということに由来する。薬師堂が建立された云われについて、そして薬師堂を取り囲むこの一帯が実はどういう場所であったのか・・・。それらの事柄に関して、とても所縁(ゆかり)の深い方達であったのだ。そんなお二人とたまたま偶然出くわしたこと自体が不思議な出来事であったように思えてならない。これだけの説明ではこの記事を読んでもらっている人にはなにがなんだか訳がわからないだろう。この出会いのあらましをここに記してしまってもよいのだが、多分話が長くなってしまって、それだけで今回の記事が終わってしまいそうな気もするので、詳しい顛末はまた別の機会にじっくりと記事にまとめようと思う。簡単な形にまとめて、ここに記してしまうのもなんだかとても惜しいように思われるのだ。それほど、個人的には想い入れがあるというか、大変興味深い出来事であったから・・・。ひとしきり、お二人と時間を過ごした後、お別れを告げて薬師堂を出発したのが午後12時40分過ぎ。僅かな時間ではあったが、薬師堂での出会いはとても印象深く今でも強く記憶に残っている。



モエ坂 観音堂
『 モエ坂の薬師堂。弘法大師・薬師如来・不動明王が奉られているが、昔は大日如来が御本尊だったという。現在は横峰寺に安置されているという大日如来像だが、この像にはある伝説が残っており御堂の創建に深く関わっている。その話はまた別の機会に・・・。 』



 モエ坂の山道を更に下っていく。本当にどこまでも急な坂が続き、最初のうちは「脚に優しい道だ」「筋肉痛は起こるまいよ」と思ってはいたものの、時間が経つにつれて、それが全く的外れの考えであったことがわかってきた。たしかに道はわるくはない。昨年(2009年)の夏に訪れた久万高原町の八丁坂(45番札所岩屋寺に至る山道)の終盤あたりの下り坂、そして久万高原町と松山市の境界に位置する三坂峠の下り坂を歩いたときの思い出は、まだ新しい記憶として残っているが、いずれの坂道も歩き辛く、挙句は膝の筋肉を傷めてしまった。それらに比べれば、このモエ坂はまだ「優しい道」だといえるかもしれない。ただ、この時の僕は何時しかモエ坂を下り終えた後のことに気を捕らわれ始めていた。「何時頃石鎚山の登山口に着けるだろうか?」「あまり遅くなってもまずいな・・・」といった小さな不安材料が徐々に歩くペースを速めてしまっていた。慌てず慎重に歩くことに充分注意していた筈であったが、結局は先を案じる気持ちに負けて本来の自分のペースを見失っていたようだ。結果、脚の筋肉にかける負担は大きくなりだんだんと辛くなってきた。「マズイな、今脚を痛めている場合じゃないんだけども・・・」と頭では考えているものの、無意識のうちに脚が勢い良く前へ前へと動く有様だった。辛いんだけれども止められない・・・、そんなジレンマを抱えながらの歩行が続いた。しかし、歩けども歩けども周囲の状況は変わることもなく、何時終わるともしれない急勾配の坂は相も変わらず延々と続いてゆく・・・。「このモエ坂もやはり難所だった!」、そう思わざるを得なくなってきた。地形的な意味合いもあるが、石鎚山登山口へと逸る気持ちがつい生まれてしまう場所なのだという意味も込めての『難所』というわけである。さすがに『修行の道』、厳しいものだと思いながらも、せめて足元の注意だけは怠ってはならぬと意識しながらセッセと坂を下っていく。



モエ坂の山道2






『 途中、杉などの山の木々が進路上に倒れている場所が多々あった。全て歩き易い道であったかといえば、あながちそうとも言い切れない。しかし、四国の遍路道ではこういった場所は珍しくはないので、特には気にならなかった。むしろ、これぞ遍路道!と嬉しくなったりしたものだった。 』

 時折、四国電力が設置した道標を見かけた。道標の中のいくつかには白い札が架けられたものがあり、「・・・・これより頂上まで〜米 〜班」と黒い文字で記されている。山中に張り巡らされた電線のメンテナンスなどを行うために電力会社の工員さん達が定期的に山に入られているのだろうか?詳しい事情はわからないが、恐らくそういうことに違いない。この札は山に入られた電力会社の或るチームが次に山に入るであろうチームに対して現在位置をわかりやすく伝えるために掲げたものであると思われるが、札の文面から察するに、皆さんどうやらこの坂を登っていらっしゃるようだ。「こんな急勾配の坂を登るのは仕事とはいえ、難儀だろうな。大変な御苦労だな・・・。」と札を見かけるたびに感銘を受けた。先の薬師堂であの熟年男性方から「このモエ坂もかつては横峰寺を参拝に訪れたお遍路さんが利用した遍路道だった、昔は皆がこの坂を登っていた」という話を聞かされたのだが、下りですら骨の折れるこの坂道を『登る』行為の辛さは当時は如何程のものであったのか・・・。身を切るような辛い難業であったに違いない。そして現在もその行為は一部の人達によって実践されている。「俺には絶対無理やな・・・」と苦笑いをしながら、そんな行為とは無縁であろう自分の境遇にホッとするやら、はたまたそこで安堵している自分が少し情けないと感じるやら・・・。複雑な思いを抱きながら猶も坂道を進んでいく。しかし、全く『無縁』だなどと考えていたことが実は大きな思い違いであったことをこの後僅か数時間後に痛い程思い知らされることになる・・・。
 
 モエ坂に入ってから、かれこれ50分くらいは経っただろうか。もうだいぶ下のほうまで下りてきている筈だが・・・、そう思っていると何処からか水の流れる音が聞こえてきた。どうやら近くに河が流れているようだ。水の音から察するに、それは小さなせせらぎなどではなくまとまった水量を湛える河、山の下方を流れる河のようである。つまりは、かなり低い位置まで山道を下りてきたということになる。なにやら、ホッとした。あと少しでモエ坂の行程は終わり、やっと県道に出られる・・・。大方、予想していたとおりの時間枠でモエ坂を下り終えることができそうである。よし!あともうひと頑張り・・・。地面を踏みしめる脚とストックを持つ手にまた力が湧いてきた。颯爽と歩きながら更に進むと、やがて行く手に小さな橋が現れた。橋を渡りながらサラサラと音を立てている河を眺めてみるが、思ったよりも細く小さな流れであった。「ありゃ、ひょっとしてまだそれ程低い位置には下りてきてないんやろうか・・・?」と自分のいる位置に一抹の不安を感じたが、なにはともあれ先へと道を進む。
 しばらくすると、また別の橋が現れた。前の橋とは違って今度の橋は少し古めかしいが石造りのしっかりしたものであった。橋の傍に石標が建っていて、『不動橋』と名が刻まれていた。竣工が昭和4年11月、何らかの記念の名目で有志の方々によって建造されたのだという内容の記述もある。およそ80年もの歴史を刻んだ年代物の橋であり、今ではかなり傷んで古びているものの、そしてこんな山中にはあるものの、これは堂々とした立派な文化財であるように思えた。それにしても当時の架設工事の様子を想像するにさぞかし骨の折れる大変な作業だったのではないかと思われ、昔の人たちの御苦労が偲ばれた。石標にはまた、「成就社 六十丁」という文字も刻まれている。成就社とは石鎚山中腹にある神社のことで、昔も現在もそうだが石鎚山頂を目指す登山者は*必ず(*河口・西之川方面から山頂を目指すルートに限る)立ち寄らなければならない場所である。石標にこのような表示があるということは、昔はこのモエ坂を通って石鎚山に向かう参拝者が多かったということかもしれない。


モエ坂 不動橋





  『 モエ坂の不動橋 』


 僕がこの日の目的地に決めていたのは、他でもないこの「成就社」である。僕のように午前の内に横峰寺を参拝し、それから石鎚山に入る日程を組んだ場合は、時間的なことを考慮しても付近に何軒か宿のある成就社で一泊するというプランを立てざるをえない(なにもこの日のうちに山頂制覇を考えていたわけではない・・・)。

 「あと六十丁かあ・・・。がんばろう・・・。」

 丁石というものにはこれまで幾度もお目に罹ったことはあるものの、未だ『丁』という単位にピンとくるような頭は当然持ち合わせてはいない。六十丁と言われても、さっぱり距離感はつかめない(後で地図で確認し直したが・・・)。ただ、自分の目的地までの距離を教えてくれる標識があったことが何気に嬉しかっただけのことである。

 不動橋を渡り、更に坂道を下ること7、8分ほどで、ようやくモエ坂の出口が見えてきた。出口には小さな地蔵堂があって、一人のおじいさんがのんびりと辺りを掃き清められていた。「こんにちは」と声をかけると、「御苦労さまです・・・。」と返事を返して下さった。いつものことだが、こんな僅かなやりとりが疲れた体を癒してくれるものなのである。本当にありがたい。

 午後1時半、モエ坂の出口に到達。県道142号線に入る。

 出口に建てられた地蔵堂のすぐ傍に「右 横峰寺へ 三五〇〇米 往復四時間」との文字が刻まれた石標が立っていた。これは明らかにこの場所から横峰寺に向かう参拝者のために造られたものである。やはりこのモエ坂の山道もかつては多くのお遍路さんが利用していた遍路道であったのだ。また虎杖(いたずり)と呼ばれるこの地区と横峰寺を結ぶ唯一の道であったがゆえに、はるか昔から多くの信心深い住民の方々が何度も何度もこの山道を往来していたにちがいない。先に僕はモエ坂を『登る』行為は昔は難業だっただろうと自分なりの想像で述べたが、意外とそうではなかったようにも思えてくる。多くの村人が和やかな雰囲気の中で行き交っていた山道の光景が当時はあったのではないだろうか。たしかに辛い行程ではあったが、人々はお互いを励まし合い助け合いながら、そして時には笑顔を浮かべながら悠々と横峰寺への往路を楽しんでいたのかもしれない。そんな村人の作り出す空気に昔の遍路人も元気を与えられていたのではないだろうか。「難業」などとは程遠いものだったのかもしれない。あくまでも想像に過ぎないのだが・・・。

 何気なく後ろを振り返って今自分が下りてきた道を眺めてみると、さっきまでは気づかなかったが、筒型のコンクリート石が出口にほど近い場所に設置されており、中には杖の代わりになるような太くて長い木の枝が数本挿して置かれている。登山道や峠道の入り口などでよく見かけるものだ。こういったものが設置されているということは今でも頻繁にこの山道は利用されているということであろう。どおりで道が歩きやすかったわけである。この地は横峰寺を擁する山と石鎚山に挟まれた地であるがゆえに信心深い方が多いように思える。信心深い地元の方々によって、モエ坂の山道は大切に守られてきたのだろう。地蔵堂を掃き清められている老人もそんな住民の一人であられるにちがいない。



モエ坂 出口



『 モエ坂出口(?)に建つ地蔵堂。昔はここで道中の安全を祈願して山に入られた方も沢山いらっしゃったのかもしれない。 』



 様々な想いに耽りながらボーッと山道の出口を眺めていると、何処からか「お父さん!道聞いておられるよ!」と元気なおばちゃんの声が聞こえてきた。「おおっ」と返事をしたのは地蔵堂の掃除をされていたあのご老人。掃除道具を道端に置くと、県道のほうに下りて行かれる。
 ご老人のあとを目で追っていくと、行く手に一台のワゴン車が県道に停まっており、傍に頬被りの頭巾を被ったおばさんが立っていて車のドライバーの女性となにやらしきりに話されているのが見えた。歩いてくる老人を見ながら、「ロープウェイの乗り場のことで聞いていらっしゃるけん、ちょっと教えてあげて!」とおばさんが言われる。どうやら、この老人とおばさんは御夫婦のようであった。お二人でこうして時折地蔵堂の掃除をされたり、時には今のように初めてこの地に来る方々のために道案内をされているようである。

 偶然とはいえ、このような優しい地元の方をお見かけできたことは嬉しかったし、また元気を貰ったような気がして有難かった。こういったことも、全てはお大師様のお計らいによるものだろう。モエ坂を急ぎ足で下ってきたことで、脚を痛めていないか心配だったが、どうやら大丈夫そうだ。特に痛みも感じないし、重みや違和感も感じない。ただ疲労感は残っていたが・・・、それもこのお優しい御夫婦に出会ったおかげで疲れはどこかに吹っ飛んだようだった。なんとか良いコンディションで石鎚山に臨めそうだった。本当にお大師様には感謝である。

 晴天の空の下、左右に間近に迫る山々を眺めながら、県道142号線を進む。目指すは「河口」。石鎚登山道の入り口にあたる地である。