2009年06月04日
冬遍路 〜足摺岬・宿毛へ〜 (19)
2008年12月31日 市野瀬・ドライブイン水車にて

午前11時13分、ドライブイン水車に到着した。土佐清水市と四万十市の境界線に程近いこの休憩所に僕は再び戻ってきたのだ。
「水車」と白い大きな文字の書かれた食堂の赤い屋根が妙に懐かしい。あれからまだ2日しか経っていないにもかかわらず…。ここで食べた丼飯の味が未だに鮮明に記憶に残っている。一昨日歩いた大岐への道程は、このドライブインを過ぎてからが正念場だった。そして、今日これから歩いていく道程も、この場所からが正念場となるだろう。
(せっかくやから、なんか食べていくか…。)
正念場を前にしての腹ごしらえといきたいところだが、食事を摂るにはまだ少し時間が早い。空腹感も全く無かったので、とりあえず休憩だけでもさせてもらおうと、食堂横のベンチへ向かった。
ベンチには若いお遍路さんが二人、身支度を整えながら、丁度出発しようとしているところだった。何となく見覚えのあるこの二人…。 いや…。 あれは、紛れもなく…!
(おおっ、あれはKさんとNさんやないかっ!!)
思わず声をかけると、「おお…」と二人共手を挙げて笑って出迎えてくれた。なんとかこの二人に追いつけたようだ。
「Nさん、やっぱりこちらの道を選びましたか…。」
少しニンマリした表情でNさんに訊ねると、
「いや、Kさんと歩いているうちに、なんだか自分も真念庵を見ておきたくなったんでね。…というか、今朝はどうも足の怪我が少し痛むんですよ。あまり調子がよくないみたいでね…。たぶん今日は独りで歩くのはきついんじゃないかなって思うんですよ。だれかと一緒に歩いたほうが、精神的にも楽だと思うんでね。そんなわけで今日一日、Kさんについていこうかなって決めたわけです。」
大丈夫かと少し心配になったが、隣で黙って頷いているKさんの顔を見ていると、不思議と安心感が湧いてくるのだった。
(この人が一緒やったら、大丈夫やろう。なんとかなるわ…。)
安定感抜群(僕の勝手に抱いているイメージだが)のKさんがいれば、Nさんも心強いだろう。
「ところで六根清浄さん(仮名)、やっぱり真念遍路道は諦めきれませんか?」
唐突なNさんの問いに一瞬戸惑った。「諦めきれませんか?」という言葉の中に「止めたほうがええぞ、考え直せよ」といったニュアンスが多分に含まれている気がしたのだ。他人の考えや方針を尊重し、決して自分の考えを押し付けないタイプのNさんにしては珍しいセリフだった。
「今のところは、まだ諦めきれませんねえ…。どんな道なのか、どうしても見ておきたいんですよねえ…。」
「うーん…。でも、真念遍路道っていうのは山道じゃないですか。この時間からだと、山道の途中で日が暮れちゃうんじゃないですかね…。さすがにそれはマズいと思いますけどね。」
Nさんの言うことはもっともだ。その可能性はかなり高い。ここから真念遍路道の入口にあたる三原村上長谷の集落へはおよそ10kmの距離があり、到着するのにおよそ3時間はかかるだろう。真念庵を参拝する時間や時折休憩をとりながら進むことを考えれば、山道に入るのは午後3時を回ったくらいになるだろうか。日没を午後5時くらいと想定すると、山中でどっぷり日が暮れてしまう確率は非常に高い。
「たしかにマズいでしょうね…。遭難したらどないしましょか…。ハハハ…。」
「いや、冗談もいいですけど、なるべくなら行かないほうがいいですよ。他のことならともかくね、真冬の時期に山道を夕方になって歩くっていうのは、やっぱりやめておいたほうがいいですよ。」
Nさんは本気で僕のことを心配してくれているらしい。
「状況を見ながら判断することにしますよ。上長谷(の分岐点・真念遍路道の入口)に着くのが、かなり遅くなったら、諦めてそのまま県道を進みますけども。午後3時までになんとか着けたなら…・、行っちゃうでしょうね。たぶん。」
「というか…。絶対行くつもりでしょ?!なにがあっても。なんか顔に出てますよ、『オレは絶対行くぞ』って…。」
ウッ…・。さすがはNさん…。鋭い観察力だ。

午前11時13分、ドライブイン水車に到着した。土佐清水市と四万十市の境界線に程近いこの休憩所に僕は再び戻ってきたのだ。
「水車」と白い大きな文字の書かれた食堂の赤い屋根が妙に懐かしい。あれからまだ2日しか経っていないにもかかわらず…。ここで食べた丼飯の味が未だに鮮明に記憶に残っている。一昨日歩いた大岐への道程は、このドライブインを過ぎてからが正念場だった。そして、今日これから歩いていく道程も、この場所からが正念場となるだろう。
(せっかくやから、なんか食べていくか…。)
正念場を前にしての腹ごしらえといきたいところだが、食事を摂るにはまだ少し時間が早い。空腹感も全く無かったので、とりあえず休憩だけでもさせてもらおうと、食堂横のベンチへ向かった。
ベンチには若いお遍路さんが二人、身支度を整えながら、丁度出発しようとしているところだった。何となく見覚えのあるこの二人…。 いや…。 あれは、紛れもなく…!
(おおっ、あれはKさんとNさんやないかっ!!)
思わず声をかけると、「おお…」と二人共手を挙げて笑って出迎えてくれた。なんとかこの二人に追いつけたようだ。
「Nさん、やっぱりこちらの道を選びましたか…。」
少しニンマリした表情でNさんに訊ねると、
「いや、Kさんと歩いているうちに、なんだか自分も真念庵を見ておきたくなったんでね。…というか、今朝はどうも足の怪我が少し痛むんですよ。あまり調子がよくないみたいでね…。たぶん今日は独りで歩くのはきついんじゃないかなって思うんですよ。だれかと一緒に歩いたほうが、精神的にも楽だと思うんでね。そんなわけで今日一日、Kさんについていこうかなって決めたわけです。」
大丈夫かと少し心配になったが、隣で黙って頷いているKさんの顔を見ていると、不思議と安心感が湧いてくるのだった。
(この人が一緒やったら、大丈夫やろう。なんとかなるわ…。)
安定感抜群(僕の勝手に抱いているイメージだが)のKさんがいれば、Nさんも心強いだろう。
「ところで六根清浄さん(仮名)、やっぱり真念遍路道は諦めきれませんか?」
唐突なNさんの問いに一瞬戸惑った。「諦めきれませんか?」という言葉の中に「止めたほうがええぞ、考え直せよ」といったニュアンスが多分に含まれている気がしたのだ。他人の考えや方針を尊重し、決して自分の考えを押し付けないタイプのNさんにしては珍しいセリフだった。
「今のところは、まだ諦めきれませんねえ…。どんな道なのか、どうしても見ておきたいんですよねえ…。」
「うーん…。でも、真念遍路道っていうのは山道じゃないですか。この時間からだと、山道の途中で日が暮れちゃうんじゃないですかね…。さすがにそれはマズいと思いますけどね。」
Nさんの言うことはもっともだ。その可能性はかなり高い。ここから真念遍路道の入口にあたる三原村上長谷の集落へはおよそ10kmの距離があり、到着するのにおよそ3時間はかかるだろう。真念庵を参拝する時間や時折休憩をとりながら進むことを考えれば、山道に入るのは午後3時を回ったくらいになるだろうか。日没を午後5時くらいと想定すると、山中でどっぷり日が暮れてしまう確率は非常に高い。
「たしかにマズいでしょうね…。遭難したらどないしましょか…。ハハハ…。」
「いや、冗談もいいですけど、なるべくなら行かないほうがいいですよ。他のことならともかくね、真冬の時期に山道を夕方になって歩くっていうのは、やっぱりやめておいたほうがいいですよ。」
Nさんは本気で僕のことを心配してくれているらしい。
「状況を見ながら判断することにしますよ。上長谷(の分岐点・真念遍路道の入口)に着くのが、かなり遅くなったら、諦めてそのまま県道を進みますけども。午後3時までになんとか着けたなら…・、行っちゃうでしょうね。たぶん。」
「というか…。絶対行くつもりでしょ?!なにがあっても。なんか顔に出てますよ、『オレは絶対行くぞ』って…。」
ウッ…・。さすがはNさん…。鋭い観察力だ。
「これ以上のことは、言わないほうがいいんでしょうね…。とにかく無理はしないでくださいね。無事にみんなでいい年越しができることを祈ってますよ…。」
「はあ…。くれぐれも自重します…。Nさんも足の痛みがあって、辛いでしょうが・・・。頑張ってくださいね。Kさんも…。」
「じゃあ、僕等は先に出発します。お互い頑張りましょう。宿毛でまた会いましょう…。」
「ええ、民宿Sで会いましょう…。お気をつけて…。」
二人の後ろ姿を見送りながら、改めて本当にいい仲間に恵まれたなと胸が熱くなった。そして、何事もなく無事にみんなで年が越せることを強く願った。
それにしても…。Nさんの怪我の状態はやはり気になる。右足を少しひきずるように歩いているのが、ちょっと心配だ。何事もなければいいのだが。
ベンチに腰を下ろし、少しの間休憩をとる。地図を見ながら、この先の道筋を再確認する。真念庵は此処ドライブイン水車からは目と鼻の先にある距離だ。問題なく辿り着けるだろう。真念庵を抜け、三原村上長谷までの道中や真念遍路道の山道を進む行程は今日の遍路の正念場となることは必然だが、「村」や「山」という言葉から連想されるのは心を和ませてくれる景色だ。いい景色を見ながら歩くことができるならば、脚の疲労など気にはならない。正念場という大袈裟な表現の当てはまらない長閑な行程になるのではないだろうか。
問題はその先だ。本当の正念場は真念遍路道の終点、四万十市江ノ村から延光寺を目指す道程となるだろう。日が落ちてからの時間帯というのは一日の溜まった疲れがどっと体に押し寄せてくる。心も体もふらふらになりながら暗い夜道をひとりで延々と歩くこととなるのは避けられないだろう。今日の、いや、今回の遍路の旅の中で最も辛い行程となるだろう。
(修羅場や…。やっぱり修羅場がないとな…。)
先ほどNさんとKさんの後をすぐに追いかければよかったのかもしれない。真念遍路道を諦め彼らと共に歩くことを選択していれば、今日一日の遍路は楽しく和やかに終えることができたに違いない。疲れを感じることはあっても辛い遍路になることはなかっただろう。昨日と同じように…。また彼らと一緒の時間を過ごしたい気持ちは多分にあったし、できることならば心穏やかな遍路をつづけたいという思いはある。しかしながら…。
僕の中の「もう一人の自分」が、しきりに修羅場のようなものを求めている。自分をぎりぎりの状態にまで追い詰めてくれる環境を求めているのだ。自分の本能を極限にまで研ぎ澄まさせてくれるもの。まるで飢えた動物のように「もう一人の自分」はそういったものを常に追い求めている。
巡礼の世界に「修羅場」を求めるというのは、どこか場違いというか勘違いをしているようにも思えるが、本来四国巡礼とは「死出の旅路」と呼ばれていた。過酷な巡礼だったのだ。時代は変わったが、そんな過酷な時代の面影はまだ随処に残されている筈だ。そんな場所を僕は求めているのかもしれない。辛い巡礼の旅を死ぬまでつづけた昔の遍路人の息吹を少しでも感じてみたいという思いがあるのかもしれない。何故にそこまで追い求めるのかは自分でもはっきりとはわからないが、或いは遠い大正の時代に四国巡礼を行った祖父の姿を追い続けているのが原因かもしれない。
真念遍路道を諦めきれないのは、そういう思いがあったからだろう。平成になって復元された道とはいえ、昔の遍路人は確かにこの道を通っていた筈なのだ。
Nさんはそういった僕の心中がわかっていたのだろうか。なにがあってもこの道を通ることを諦めない僕の考えを見事に当ててみせた。やはりこの人、只者ではない…。
(みんなが今日一日、無事で遍路を終えられますように…。)
元気な姿の二人と再会できることを祈りながら、重い腰をあげて出発する。
目指すは真念庵。今回の旅の中で最も訪れることを楽しみにしていた霊場である。
「はあ…。くれぐれも自重します…。Nさんも足の痛みがあって、辛いでしょうが・・・。頑張ってくださいね。Kさんも…。」
「じゃあ、僕等は先に出発します。お互い頑張りましょう。宿毛でまた会いましょう…。」
「ええ、民宿Sで会いましょう…。お気をつけて…。」
二人の後ろ姿を見送りながら、改めて本当にいい仲間に恵まれたなと胸が熱くなった。そして、何事もなく無事にみんなで年が越せることを強く願った。
それにしても…。Nさんの怪我の状態はやはり気になる。右足を少しひきずるように歩いているのが、ちょっと心配だ。何事もなければいいのだが。
ベンチに腰を下ろし、少しの間休憩をとる。地図を見ながら、この先の道筋を再確認する。真念庵は此処ドライブイン水車からは目と鼻の先にある距離だ。問題なく辿り着けるだろう。真念庵を抜け、三原村上長谷までの道中や真念遍路道の山道を進む行程は今日の遍路の正念場となることは必然だが、「村」や「山」という言葉から連想されるのは心を和ませてくれる景色だ。いい景色を見ながら歩くことができるならば、脚の疲労など気にはならない。正念場という大袈裟な表現の当てはまらない長閑な行程になるのではないだろうか。
問題はその先だ。本当の正念場は真念遍路道の終点、四万十市江ノ村から延光寺を目指す道程となるだろう。日が落ちてからの時間帯というのは一日の溜まった疲れがどっと体に押し寄せてくる。心も体もふらふらになりながら暗い夜道をひとりで延々と歩くこととなるのは避けられないだろう。今日の、いや、今回の遍路の旅の中で最も辛い行程となるだろう。
(修羅場や…。やっぱり修羅場がないとな…。)
先ほどNさんとKさんの後をすぐに追いかければよかったのかもしれない。真念遍路道を諦め彼らと共に歩くことを選択していれば、今日一日の遍路は楽しく和やかに終えることができたに違いない。疲れを感じることはあっても辛い遍路になることはなかっただろう。昨日と同じように…。また彼らと一緒の時間を過ごしたい気持ちは多分にあったし、できることならば心穏やかな遍路をつづけたいという思いはある。しかしながら…。
僕の中の「もう一人の自分」が、しきりに修羅場のようなものを求めている。自分をぎりぎりの状態にまで追い詰めてくれる環境を求めているのだ。自分の本能を極限にまで研ぎ澄まさせてくれるもの。まるで飢えた動物のように「もう一人の自分」はそういったものを常に追い求めている。
巡礼の世界に「修羅場」を求めるというのは、どこか場違いというか勘違いをしているようにも思えるが、本来四国巡礼とは「死出の旅路」と呼ばれていた。過酷な巡礼だったのだ。時代は変わったが、そんな過酷な時代の面影はまだ随処に残されている筈だ。そんな場所を僕は求めているのかもしれない。辛い巡礼の旅を死ぬまでつづけた昔の遍路人の息吹を少しでも感じてみたいという思いがあるのかもしれない。何故にそこまで追い求めるのかは自分でもはっきりとはわからないが、或いは遠い大正の時代に四国巡礼を行った祖父の姿を追い続けているのが原因かもしれない。
真念遍路道を諦めきれないのは、そういう思いがあったからだろう。平成になって復元された道とはいえ、昔の遍路人は確かにこの道を通っていた筈なのだ。
Nさんはそういった僕の心中がわかっていたのだろうか。なにがあってもこの道を通ることを諦めない僕の考えを見事に当ててみせた。やはりこの人、只者ではない…。
(みんなが今日一日、無事で遍路を終えられますように…。)
元気な姿の二人と再会できることを祈りながら、重い腰をあげて出発する。
目指すは真念庵。今回の旅の中で最も訪れることを楽しみにしていた霊場である。


