気ままに歩いて候。

あせらず、くさらず、歩いていきましょう。 2007年5月の連休から始めた区切り打ちの四国歩き遍路の思い出を綴った記事を中心に掲載しています。

高野山へ行ってまいりました

 去るGW期間中(5/3〜5/5)に、高野山に行ってまいりました。四国遍路を無事に終えることができたことへの御礼参りが目的でしたが、それ以上に得るものの多かった旅となりました。


 今年の正月に結願・四国一周を終え、数ヶ月もの月日が経ってしまったものの、前回の旅の続きを歩くのだというつもりで臨んだ高野山行き。正直言いますと、正月の旅の期間中に徳島からすぐにでも高野山に向かいたかったのですが、残念ながらタイムオーバー、そこまでの時間の余裕がありませんでした。四国一周直後に高野山の奥の院を参拝すれば、感動もひとしおだったのに・・・と当時はどれ程無念に思ったことでしょうか。しかし、これも致し方のないことだったのでしょう。休暇時間の限られた勤め人の運命とでもいいましょうか・・・(ちょっと愚痴っぽいですね)。考えてみれば、寒さに弱い自分が極寒で知られる冬の高野山に登ったところで、落ち着いた気持ちで参拝をすることが果たしてできたかどうか?・・・多分、無理だったでしょう。ましてや感動に浸る余裕すらなかったように思えます。そうしますと、此度の暖かい春の時期に於いての高野山行きが結果的には自分にとってはよかったように感じられます。御山の美しい自然にも触れることができましたし、落ち着いた気持ちで御山での日々を過ごすことができました。あるいはこれもすべて、お大師様のお導きであったのかもしれません。ただ、前回の旅との時間がかなり空いてしまったために、「お遍路最後の旅」とするつもりだったのが、なにやら「お遍路番外編の旅」になってしまったような気もしないではありませんでした。四国遍路の旅と高野山への旅は『別物』として区切られてしまったような感じといいますか。まあ、贅沢言っても仕方ないのですが・・・(笑)。


 思えば、正月の遍路の旅を終えてからどれ程高野山に向かう日を夢見たことでしょうか。しかし、この5月に至る期間中には国内では未曾有の大災害が起き、また個人的なことを言いますと体調不良が続き滅多に行かない医者にも通ったりする日々が続いたりで、どうも気持ちの落ち込む傾向にありました。旅への意識も次第に薄れてゆき、「こんな大変な時期なのに旅をする場合でもないだろう」とすら思うようにもなっていました(多分、多くの日本の方がそう思っていたにちがいありません)。ですが、物事は後ろ向きに考えたところで決してよい方向に向かう筈はありません。前向きさを徐々に取り戻しながら再び旅への(それ以外の諸事についてもですが)意欲を取り戻し、再び高野山行きへの想いを振り起こすことができたのでした。



 旅の過程を簡単に振り返ってみたいと思います。


 まずは高野山までの行程ですが、御山入りはあくまで「徒歩」でいこうと決めていました。九度山町の慈尊院から高野山大門までつづく『町石道』は昔から大阪方面からの参拝者に利用されていた街道でした。その距離およそ23km。大阪方面よりつづくもうひとつの街道、参拝者がより多く利用したといわれる『高野街道』(九度山町学文路より高野山女人堂に至る)のほうが距離的には短いようでしたが、参拝道としての色合いが強いとされる『町石道』にどうしても惹かれるものがあり、この道を歩いていこうと計画を立てていました。5月3日の早朝に大阪に到着後に地下鉄に乗り継ぎ難波へ。難波から南海高野線に乗り九度山へ着いたのが午前8時半頃でした。九度山といえば、まず思い浮かべるのは真田庵。関が原の戦いで西軍に与し、信州上田城で徳川軍にさんざん煮え湯を飲ませた真田父子(昌幸・幸村)が後に蟄居生活をおくっていた場所です。個人的には非常に(いや、ほんまに!)興味もあり是非とも立ち寄りたかった場所ではあったのですが、先の行程を考えて今回は無念のスルー。そのまま慈尊院に向かい、本堂と大師堂を参拝後、納経所で道筋をお聞きしたのち、いよいよ『町石道』の山道に脚を踏み入れたのでした。(ちなみに御存知の方も多いと思いますが、慈尊院は御大師様のお母さんが住んでおられた場所です。御大師様は月に九度、御山を下り町石道を歩いてお母さんに会いに来られていたとか。それが「九度山」の地名の由来だそうです。)

 町石道の出発点から高野山の根本大塔に至る道沿いには180基もの卒塔婆の形をした町石が建っていて昔から参拝者の道標の役割を担ってきたようです。現在もそれは変わらず、自分もその町石を眺めながらの長い徒歩行をつづけることとなりました。ひたすら山道を歩き、途中、天野の里といわれる山里を経由しながら、更に急ぎ脚にて山道を進み笠木峠を越え矢立という地に到着したのが午後3時を大きく回っていたでしょうか。そこから大門に至る山道は登り坂のつづく険しい道でした。途中、袈裟掛石や押上石などの大師伝説にまつわる遺跡を眺めたりしながらようよう大門に到達したのが午後5時半頃。慈尊院より歩き始めてから休憩時間などを省くと大方7時間の道のりでした。

 高野山の町に入ると、そのまままっすぐに5日まで御厄介になる宿坊へと向かいました。成福院というその御寺は、大随求明王という仏様を御本尊とする珍しい御寺で、この仏様を御本尊とされている寺院は日本でも3箇所しかないというお話を後にお聞きしました。遅い到着にも関わらず、御寺の若い僧侶の方が温かく迎えてくださいました。これより2泊にわたって、宿坊体験(精進料理や早朝のお勤め・写経など)をさせていただいたのですが、旅館や民宿とはまた違った新鮮な宿泊体験を高野山でできたことは大変よい思い出になりました。続きを読む

東北・関東大地震

未曾有の大災害に東北・関東の地域が被害に見舞われてから4日が経った。連日、テレビなどの報道に接しながらも僅かばかりの募金をするしかなすすべがない自分というものに無力感を覚えている。いや、今回のような日本を揺るがすような大惨事に自分ひとりだけが無力感を持っていると考えること自体がおこがましいことなのかもしれない。多くの日本の国民の皆さんがあまりに強大な自然の猛威というものに無力感を覚えているにちがいない。そんな状況の中で自分にできることを精一杯頑張っていらっしゃる。被災地の方しかり、各地から救援活動に向かわれている方しかり。国や自治体の方々も対応の如何によっては批判の的になることも充分覚悟の上で、それでもできることを精一杯頑張っておられる。
人ひとりができることは本当に限られている。限られたことをひとりひとりが精一杯の努力で成し遂げることがこの危難に立ち向かう武器とも言えるのではないか。嘆いてばかりいては前途は開いて来ない。強い心が必要だが、誰しもが強い心を保ち続けられるものではない。助け合うことがなにより大事なことだろう。

世界の各地からも支援の手は差し伸べられている。アメリカは救助活動のために軍を派遣し、ロシアは天然ガスの日本への供給量を大幅に増加したという。他にも多くの国から救援を希望する声があまたあるようだ。本当にありがたくて頭の下がる想いがする。中でも感動したのがアフガニスタンのカンダハル州からの支援要請。カンダハル州は現在、反政府勢力との内戦状態にあるという。そんな状況下の中、「アフガン復興の為に力を尽くしてくださった恩返し」と国の財政事情から言えば決して出せる額ではない義援金を日本に送ることを表明されたという。また、先ごろ大震災に見舞われたニュージーランドからも救助隊が来日するとのこと。自国の救助活動も難航している最中というのに、「われわれが今度は日本を助ける番だ」と多くの救助隊員の派遣を決められたというのだ。本当に胸が熱くなる出来事である。これも海外において地元の人たちの為に懸命に頑張ってこられた日本の方々のおかげであるといえるだろう。自分のようなしがない人間が言うのもなんだが、そういった日本の方々に、そして救援の手をさしのべてくださっている世界の方々に深く御礼申し上げたい。本当に「ありがとうございます」と心から言いたい。

東京都知事の石原氏が「今回の津波は天罰、日本人のもつ『我欲』をこれで洗いおとせればいい」といった趣旨の発言をされているようだ。たしかに昨今は自我ばかりが強い人・心にゆとりのない人が増えたような気もする。しかし、どんな人の心の中にも必ず仏心というか善意の心は宿っていると思えるから、「世も末」というような感覚は自分にはない。他人がどうこうということよりも、まずは自分自身が自らの心の善意(善の定義も人それぞれとは思うが)の声に従った行動をとることが大事なように思える。懸命にそれをつづけることで、いつかは誰かにその想いが伝わっていくのではないか。今、世界中から支援の声が起こっていることもそれの表れではないかと思える。善意は人に伝わるもの。それが改めて確信できたような気がする。


毎日、テレビには声も出なくなるような、信じられないような映像が流れている。まだまだ被災地の現状は未確認な部分も多い。これから更に明らかになっていくであろう被害の状況に僕ら国民はますます驚嘆することだろう。大自然の力とはかくも強大で恐ろしいものであったのか。人の営みとはかくも無力なものであったのか。血と涙とともに一生をかけて積み上げてきた人間の努力の結晶がこうも簡単に消え去ってしまうようなことがあってよいものか。様々な人の営みを、想いを、人生を、一瞬にして消し去ってしまった大津波。

昨日、被災地からの映像の中で心に残るものがあった。避難解除で避難所から自宅のあった場所に戻ってきたある男性がインタビューを受けていた。自宅はいうまでもなく辺りも倒壊。あまりの状況に暫し男性は声を発せられずにいた。時をおいて心の底から振り絞るように、物はすべて無くなったけど人は残ったと。一言残して家族の人に支えながらその場を去って行った。
人は大いなる自然の力にはなすすべも無く無力な存在である。それでも、人は生きていく。この世に生を受けた以上、人は生きていく。生きて生きて、一生を終え、そして命を次の世代につなげていく。そうして人の営みはまた延々と続いていくのである。それもまた大自然の中のひとつの「力」にちがいはあるまい。人が残りさえすれば、希望の光は必ずある。本当に大切なことをあの男性に教えられたような気がした。

被災地から距離を隔てた、そして幸運にもあるべき日常を過ごすことのできる地にいる僕にとって、できることはなにかと自分に問う時間がつづいている。募金や支援も必要不可欠なことではあるが、なにより与えられた日々を懸命に過ごすこと、お勤めを懸命に勤め上げることが大切だと心が定まってきた。元気であること。元気であれば、支援の手も差し伸べられるからだ。この先、この災害の影響が国内の随所に表れることだろう。様々な問題が生じてくることだろう。覚悟は必要だが、とにかく与えられた時間を精一杯過ごすことこそ肝要に思える。頑張るしかない。

「歩き遍路」を終えて

少し遅くなりましたが、皆様あけましておめでとうございます。

まずは近況報告をさせていただきます。昨年の12月30日から年が明けての1月4日までの6日間、年越し遍路をさせていただきました。予定していたとおり、第78番札所郷照寺から第88番札所大窪寺、そして第1番札所霊山寺に至る行程を無事に歩ききることができました。実質的にこれが最後のお遍路の旅となったわけで、4年間にわたった区切り打ち遍路もようやく終了しました。長かったようで短かった4年間。人生という長い時間の中では4年という月日は一握りの時間でしかないかもしれませんが、僕の中ではこの4年間の月日はとても得難い時間だったように思えます。お遍路を通じて得たものは何物にも変え難いものばかりで、これからの人生の月日をどう生きていくべきなのかという「道標」を頂けたような気がしています。なにが本当に大切なことなのか、自分の心の有り様はどうあるべきなのか。いや、もっと沢山のことを遍路の旅は僕に教えてくれました。この4年間の思い出はこれからも僕の一生の宝物となっていくでしょう。この4年間の月日に出会えたこと、御縁があったことに感謝したいと思いますし、その御縁をもたらしてくださった全てのことにも御礼申し上げたいと思います。

今年の冬の四国は雪が多いといわれ、大寒波も到来するともいわれていました。どのような旅になるのかとても心配しておりましたが、僕の歩いた香川県(宇多津町より東)は幸運にも初日の12月30日を除けば、晴天続きの天候でした。気温も極めて寒いというものでもなく、とても快適な遍路の旅をつづけることができました。ただ、第81番白峰寺や第82番根来寺などの山中の札所に至る山道には雪が多く残っており、それなりの苦労は伴いましたが・・・。そして、第88番大窪寺に至る女体山の山道は「雪が多くて危険」という忠告をいただいたこともあって、已む無く諦めざるをえませんでした。これが本当に心残りで今でも残念に思うのですが、迂回路である県道がまだ通行可能だったということを考えれば幸運だったのだと感謝しなければならないでしょう。おかげでなんとか大窪寺に辿り着くことができたのですから。もし県道までもが通行不可の状況であったならば、今回の旅で結願という展開にはならなかったでしょう。女体山越えは2巡目(?)の旅の楽しみにとっておくということで今は納得しております。とにかく、本当によい天候のもとで最後のお遍路の旅ができたということを改めて御大師様に感謝したいと思っております。

大窪寺を打ち終え、第1番札所霊山寺までのルートをどうするかは最後まで悩みました。結局、選んだのが大坂峠越えのルートでした。四国路の中の数ある峠道には本当に苦労させられたものでしたが、同時に愛着のようなものも感じるようになっていたのです。遍路の旅の最後の峠道というものを是非味わっておきたい、そんな想いから大坂峠越えのルートを選択したのでした。大窪寺を出発してから2日間の日程を使って第1番札所霊山寺へと無事に辿り着くことができました。懐かしい霊山寺の山門が見えてきたときは、なにやら自分でもわからない感情が込み上げてきて半分顔が崩れていたのではないかと思います・・・。「泣くことは絶対無い」「通し打ちお遍路さんが抱くような感動は決して無いだろう」とタカをくくっていたのですが、そうじゃなかったようで・・・(笑)。

あの込み上げてきた感情はなんだったのだろうと今でも考えます。達成感や、終わりまで歩かせていただいたという感謝の気持ちもあったでしょう。しかし、それ以上に大きかったのは「これで終わってしまうんだ」という寂しさだったように思えてなりません。全てが終わったわけではなく、まだ高野山への行程も残っていますし、四国への御縁もこれで終わりなどとは露ほどにも感じてはおりませんでした。ただ、「自分の1巡目はここで終わり」なのだという紛れも無い事実と向き合うことで言いようもない寂しさが湧き上がってきたのでしょう。しかし、物事には必ず終わりというものがあります。本当にこればかりは仕方のないことでして・・・。考えてみれば、「寂しさ」というものを感じることができる本当にいい旅を体験させていただいたのだなと思います。「寂しさ」を感じることがあの瞬間無かったならば、4年間という月日は自分にとってなんだったのかと自分に問い詰めることになっていたでしょう。

本当に実りのある4年間だったと思います。四国遍路というものに出会えて本当によかった。

自分を四国に導いてくれたもの。そして、四国路を歩く自分を支えてくださった全てのものに心から感謝申し上げます。本当に、本当にありがとうございました。

そして、次に四国を歩くときが来たならば。なにか少しでもそういったものに恩返しができればいいなと考えています。どんな形でもいい。自分のような人間にでもなにかできることがあるのならば、してみたい。大きなことはできないかもしれませんが・・・。
自分が四国で貰ったかけがえのないものを他の人たちにも伝えること。それも「お四国さん」への御恩返しになるのでしょうね。このブログを綴るということもその一環になるのでしょう。つたない文章ではありますが(そして更新もなかなかままなりませんが・・・)、これからも少しづつ自分が体験したことを綴っていきたいと思っています。よろしくお願いいたします。

本年も皆様にとって、よい一年になりますようお祈り申し上げます。
南無大師遍照金剛




六根清浄

1969年4月20日生まれ

京都市在住
2007年5月から始めた区切り打ち四国歩き遍路も4年目をもちましてようやく結願いたしました。支えてくださった皆様に感謝です。2巡目の構想も視野に入れながら、さらに日本の各地を「歩き旅」で訪れてみたいと考えています。自称『歩き中毒患者』(笑)


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